鴨川・





「黄土の奔流」
2013年9月16日撮影

 これは台風が通りすぎた日の早朝。こんな鴨川は見たことがなく、僕の知るかぎりで最荒の鴨川といえる。
 生島治郎の長編小説よりこちらのほうが「黄土の奔流」。
 ただそれだけ。
(2014年5月7日更新)





「オレンヂ色の犯罪」
2011年11月20日撮影

 じつのところ僕は犯罪者である。
 かつてささやかではあるが、にもかかわらずこの世界の滅亡につながりかねない大きな罪を犯している。
 とはいえ50年もむかしのことで犯行現場すらさだかではなく、犯行時間帯も失念。どこか京都の盛り場か近辺の行楽地であることにまちがいはない。
 そこに一台のジュースの自動販売機が設置されてあった。いまでは姿を消してしまってどこにもない、10円玉を入れるとブザーが鳴り、紙コップにオレンヂ色のジュースが注がれるという仕組みの機械である。通称ブーブー・ジュース。それがジュースの販売機であることは、正面上部のドーム型透明ガラス容器の中でオレンジ色のジュースがノズルから噴水のように吹き出していて底に溜まるという循環型のデモンストレーションを永久運動的に繰り返していることで一目瞭然である。小松左京の長編小説「果しなき流れの果に」の前半部分に登場する、砂が落ちても落ちても途切れることのない不思議な砂時計のように…といえばいえる。ノズルから吹き出すジュースがガラスのドームの中で途切れもせずまたあふれもしないことが不思議でならない僕は、機械の裏側にまわってみた。すると、地面に置かれたちょうど漬け物樽くらいの大きさの白いポリタンクにオレンヂ色の液体がたまっていて、石油ストーブに灯油を入れる給油ポンプのようなもので機械とつながれているではないか。
 ポンプに手を掛けて膨らんだ部分をそっと押してみる。ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ。三回やったまでは記憶している。むろん純粋な探究心からである。とたんに器械の表側が人声で騒がしくなった。さりげなく戻ってみると、パニックがあった。硬貨を入れもしない販売機からオレンヂ色の液体がとどまることを知らず流れ出し、通りがかりの子供も大人も大騒ぎである。犯行現場に長くとどまることの危険を知る僕が素知らぬ顔でその場を離れたことはいうまでもない。また世間の犯罪者のごとくふたたび犯行現場に立ち戻るという愚を犯さなかった僕がその後の顛末を知ることもない。
 高校二年生になった初夏に読んだこれまた小松左京のすぐれたショート・ショート集「ある生き物の記録」(ハヤカワSFシリーズ 1966年刊)に収められた「故障」、なにかの故障でどこかの別世界と超空間でつながった自販機からとめどなくあふれ出したオレンジジュースがついには地球をオレンヂ色の惑星に変えてしまうというという作品、あれが今でもクッキリと胸の底に残っているのは、それが僕の子ども時代の犯罪の記憶を甘美にくすぐってくれたからかもしれない。
 僕の場合にしても、もしあれがあのまま止まらなかったとしたら…? 
 幸いなことに今もこの地球は青い惑星のままである。
(2014年5月8日更新)



「シリカ」
2007年10月2日撮影

 戦後日本の一般家庭にテレビジョン受像装置が普及しはじめたのは、僕が小学校の低学年のころ。当時僕が暮らしていた格子戸のある木造家屋にテレビがやってきたのは小学校四年生の時であったと記憶する。画像はもちろん白黒。今の子どもは哀れである。彼ら彼女らの生まれる前からテレビはあって当然なくて異端のしるしであり、彼ら彼女らはテレビが家にはじめて届いてきた日の生きながらにして天にも昇るような胸のふるえやトキメキをついぞ知ることがないからである。
 その日、小学校から帰った僕がはじめて自分の家のテレビで見たのは、NHK夕方5時台の“子どもの時間”。その中に『宇宙船シリカ』があった。糸操り人形の竹田人形座による連続SFドラマである。原作・星新一、脚本・若林一郎・前田武彦、音楽・冨田勲、声の出演・喜多道枝。ここまでは記憶している。「♪みんなの夢でふくらんだ〜」で始まる主題歌も完璧に歌える。ただしオンチである。 
 僕が初めて見た回は水に覆われた星が舞台、主人公が水中で囚われて絶体絶命というところで終わった。べつの回では映画のセットばかりの星というのもあり、今にして思うとあれはフレドリック・ブラウンの短編小説『シリウス・ゼロ』の匂いがする。広い宇宙を駆けめぐる小型宇宙船の冒険物語の何が僕の心を捉えたのかを考えてみるにつけ、それは『シリカ』というドラマの持つスマートさであったことに思いあたる。宇宙開発の幕が開いた時代に小学生であった僕は、『シリカ』によって1950年代英米SFの特質である〈洗練〉に触れたといってよい。同時代に放送されて『シリカ』よりもずっと長く続いた人形劇である『チロリン村とくるみの木』の泥臭いセンスには子どもながらに退屈と違和感をおぼえ、擬人化された野菜や果物や豆類の村の長閑な物語よりも、胸に数字の8をつけた食事ロボットとドクターロボットがつねに諍いを起こす宇宙船の星めぐりの旅のほうが僕に向いていることをそのとき知ったのである。

「鴨川銀河」
2006年11月24日撮影

 山本正之が1990年に発表したアルバム『才能の宝庫』は文字どおりの才能の宝庫である。風刺が表層を上滑りする曲と昇華がやや不足ぎみの長い曲を除けば、「キットクルマンの歌」「大化の改新」「展覧会の鰯」「南国美少女」…と粒よりの名曲揃いである。
 僕のベストワンは、笠原弘子とのデュエット歌謡「星よりの使者」。日常と非日常との不思議な融合から生まれる叙情味はなにものにも代え難く、これだけは誰がなんと言おうと譲る気はない。金輪際ないと断言する。
 かつて東京のライブにも行ったことがあるという元・山本正之ファンの前でこの作品を絶賛したことがある。だが「むかしはこういうのが流行った、と母が言ってました。多田さんはそういうのを知ってる世代だからでしょ」という反応が僕を失望させた。これは「私にはこの叙情がわかりません、理解できません」と表明しているに等しい。これでは風刺の底が浅めで誰にもわかりやすい「サヨナラNIPPON」をこのアルバム中のベストワンだというのも無理はない。
 だが山本正之は「星よりの使者」を連作にした。以後アルバムをまたいで「漂流日記」「とんぼ月夜」と続き「別れの銀河」で幕を閉じる四部作としたのである。そのいずれもが叙情と哀愁に満ちた名曲となった。子供の頃デュエット歌謡を耳にしたことがあるからではなく、山本正之と世代を同じくする僕には、これを四部作になるまで持続しようと考えた彼の心がわかる気がする。「フェイバリットな曲は『才能の宝庫』に多い」と彼が発言しているらしいこともわかる気がする。数々のアニメソングはもとより、傑作「シチリア島マフィアの美少女」「天山草原騎馬少女」しかり、「南極観測流氷美少女」もまたしかり、山本正之のパロディ精神や諧謔や文明批評の奥には、いつもしずかな叙情がたゆたい流れているのを感じるのである。この叙情を感得できずして山本正之を語ることなどどうしてできようか。
 昼の鴨川にきらめくこの無数の光は山本正之の叙情の銀河である。この画像を「星よりの使者」四部作へのオマージュとして山本正之に捧げる。 
「鴨川銀河」
「ふりだしに戻る」 「ふりだしに戻る」
2006年11月11日撮影

 ここは鴨川右岸。五条大橋の真下の北寄りから上流方向を見ている。大木は鴨川・冬ページの「冬の色A青の寒樹」の秋姿であり、向こうに見えるのは、鴨川・夏ページの「ラスベガス」の料理旅館の昼姿である。
 右岸の五条大橋下には長らく鉄製の高い柵が設置されていて橋の南側への通り抜けができなかったのだが、いつの間にか柵が撤去され、南側への通行もこのようなアングルでの撮影も、ともに可能となった。ただし、柵のあった位置には低い柵が設けられ、「通行禁止」と書かれてある。数日前に対岸を歩いていて高い柵のないことに気づいた僕は、この日の午後勇んで撮影にやってきた。ところがこちら側の僕の立ち位置もこれと同じ急傾斜面であって、コケが生えていて、おまけに雨上がりで靴底がズルズルと滑って危ない。ローアングル好きだからしゃがみ込んで踏みとどまろうとするが、それでも滑って鴨川の水に落ちそうになる。鴨川に引きずり込まれそうになる。鴨川の水の精が「そんなにわたしのことを好いていてくれるなら、いっそのことおいでおいで」と僕を呼んでいるのである。だがお誘いには応じられない。小柄な僕のこの双肩には多田製張所の命運がかかっているのである。
 鴨川の中にあって鴨川とは別に流れ、五条大橋北のこの地点で鴨川に流れ込むのは、禊ぎ川。夏場になると料理旅館や飲食店などの川床がこの上にせり出すように設置されて、僕には無縁だが京都の夏の風情なるものを演出することになる。地図で調べてみると、上流の丸太町橋のすこし南の地点で鴨川の水を取り込んで始まり、御池から三条、四条を流れてここで鴨川に水を戻して終わるようである。
 だから、ふりだしに戻る。 
『いつか来た道』
2006年10月25日撮影
 
 山本正之の『映画館』という歌の最後のほうに「♪山本富士子の弟がバイオリン弾いていた〜」という一節がある。この映画の題名が僕にはわかる。山本正之は僕と同世代人だから、同じ映画を(たぶん小学校で)見ているのである。
 島耕二監督『いつか来た道』(1959年・大映)は、僕にとってはおそろしくもおぞましい映画である。思い出の…どころか思い出したくもない映画、忘れられない…どころか忘れたいのに忘れることができない映画なのである。
 四十数年前に戻ってみよう。ファーストショットは甲府盆地にあるブドウ畑。主人公の少年が熱を出す。近所の医者が採血して帰って行く。不治の病である。少年はバイオリンの名手である。少年の姉が山本富士子である。ウイーン少年合唱団が日本公演にやってくる。少年の前で歌ってくれる。山田耕筰の『この道』。友人の団員が何かプレゼントをくれる。少年が死ぬ。こういう映画である。 
 以来、僕はその病気の恐怖症になった。少しでも熱っぽいとその病気を心配した。なにかのはずみで採血でもされようものなら、目の前が真っ暗になった。まわりはみんな僕にそのことを隠している。そうに違いないと思いこんだ。暗澹たる気分であった。だから僕は『ハンナとその姉妹』でウディ・アレンが演じる病気神経症の男の気持ちが理解できる。ああいうキャラクターを生み出したウディ・アレン監督を他人だとは思えないのである。
 僕は1981年に晩年の島耕二監督を見たことがある。とうに商業映画からは引退して(?)、T教という大きな宗教団体の信者向け映画を撮っていた。夫人が熱心な信者だという噂であった。しばらくその現場にいたが、若いころ俳優をしていたというだけあって男ぶりの良い監督であった。絵になる演出ぶりであった。女優のちょっとした動作に対して「そんなのが動物園におるぞ」などという指摘をするのがユーモラスに響いていた。ずっと後になって『いつか来た道』も『有楽町で逢いましょう』(「町角に暮らす」→「消えゆくもの」)も島耕二監督作品であることを知ったが、そのときの僕がそれを知るはずもなかった。
 そうだ忘れていた。僕はT教の映画の撮影現場の写真を撮り、加藤泰監督の家に行ったとき加藤さんに見せているのである。もちろんその写真は用事のついでに何も言わずに出しただけなのだが、意外なことに加藤さんは「これは島耕二?」と感慨深げであった。それは
「いつか来た道」
「鴨川地蔵堂」 「鴨川地蔵堂」
2006年11月7日撮影

 鴨川端に立つ地蔵堂。謎を秘めた地蔵堂である。



未完
「他人のそら似」
2006年10月3日撮影

 むかしむかし、月に一度のわりで京都市左京区にある病院通いをしていた頃のことである。あることで血液検査をしたところ、ただひとつの値だけが正常の範囲内よりやや高めであることが判明したため、仕事の合間を縫って定期的に血液検査をしていた。
 朝9時前にはバイクで病院に行って検査室の前で名前を呼ばれるのを待つ。検査室前の広くはない廊下の両側にソファがある。向かい側に座った初老の男性に見覚えがあった。小柄ではあるが普通の人ではない。一度も会ったことはないが、僕が顔だけは知っているある人に似ている。それから病院に行くたびに見かける。僕の向かいに座って本を読んで待っている。月に一度しか行かない僕が毎回見かけるのだから毎日来ているのではないだろうか。よく似ている。いや。しかし。またなんで。他人のそら似ではあるまいか?
 最初はそう思っていた。だけどだんだんフラストレーションがたまってくる。なのに相手はいつも本を読んでいる。すこしは顔を上げてくれればよいものを、人の気も知らないで読書中とは…。それにしても不思議なのは、廊下を通りかかった検査技師や看護師や事務職員などの病院スタッフがみなこの人物に目礼して通りすぎてゆくことである。
 ある日ついに意を決した。向かいの男性の前に立つ。「このようなところでとつぜん失礼ですが、もしや俊藤浩滋プロデューサーではございませんか?」 俊藤氏の顔を僕がどうして知っていたかというと、撮影現場において監督と打ち合わせをする姿が特報や予告編にときおり映っていたし、『あゝ決戦航空隊』(1974年)『冬の華』(1978年)などの作品の一場面に、プロデューサーである俊藤氏みずから出演もしているからである。さらにまた僕の長い東映京都撮影所通いのうちには、構内で俊藤氏の姿を遠目に見かけることも幾度かあったと記憶する。
 僕の声に、ソファで読書中だった人物が目を上げ、不審げに僕を見上げている。悠揚せまらざる物腰である。こちらは緊張している。図々しいがそれなりに緊張はしている。しばし僕をながめたあと、小さめの革のバッグから名刺を取り出したその人物がかの俊藤浩滋氏であったかどうか、それは…。
 IWANUGAHANA。
「他人のそら似」
「はやい秋」 「はやい秋」
2006年9月2日撮影

 夏から秋へと雲が流れてゆく。秋の雲が夏雲を北へと追いやってゆく。季節の雲がプリントされた巨大な透明シートが、青い天空上を北へ向かって巻き取られてゆくかのようである。今年はなぜか秋の訪れが早かったようである。
 「はやい秋」とは名タイトルである。これは僕のオリジナルではなく山川方夫の短編小説からの借用、それも敬意をこめた借用である。この鴨川・秋ページにかぎっていえば、音楽関係からの借用が多いようである。『悲しみの風』(つじあやの)、『迷い道』(渡辺真知子)、『プカプカ』(西岡恭蔵)、「透明人間あらわる」は70年代のヒット曲の一節である。それを言い出すとタイヘンである。どのページも借用・転用のオンパレードである。ふたたび小説に戻って「空の高さはどれくらい?」は『くらやみの速さはどれくらい』(エリザベス・ムーン)、「逆転世界」はクリストファー・プリーストの小説名そのまま、「台風のあと」にいたっては『宴のあと』(三島由紀夫)、「店が消えた」は『父が消えた』(尾辻克彦)、「いかにして高瀬川は守られしか」はもちろん『鋼鉄はいかにして鍛えられたか』である。さて転用・借用題名数ある中で、僕のいちばんのお気に入りは「鴨川の歌が聞こえる」。これがまさか勝新太郎主演の大映映画『座頭市の歌が聞こえる』からの転用であろうとは、お釈迦様でも気がつくまい。
「透明人間あらわる」
2005年9月13日撮影 

 あれは記憶のはるか彼方、1974年のことである。
 当時20代前半だった僕は、ある人物の依頼により右京区太秦の大映京都撮影所を訪れた。その人物の初めての著書が出版されることになり、そこに掲載する三隅研次監督『新撰組始末記』(1962年)のスティール写真を入手するためであった。
 一度倒産した後であったにもかかわらず、大映京都撮影所には活気があった。勝プロダクションがテレビ映画や劇場用映画でエネルギッシュに活動していた時期だったからである。
 僕の相手をしてくれたのはスティールマンの都筑氏であった。都筑氏には依頼時と受け取り時の二回お会いしたことになる。最初ネガ倉庫へ連れて行かれたとき、ネガがすべてガラス版の状態で保存されていることに驚く僕を、温厚な目で見ておられたことを記憶している。
 その都筑氏に僕は十六年後に再会する。それも自動車教習所の実技検定の直前。バイクにまたがりスタートしようとする僕の次が都筑氏であった。検定終了後、駆け寄って声をかける。事情を説明する。懐かしむ。だが。都筑氏は僕のことをまったく憶えておられなかった。スティール写真の用件すら記憶しておられなかったのである。
 その一年前、つまり初めて大映京都撮影所を訪れてから十五年後、僕はなつかしい大映京都撮影所に足繁く通った。このサイトの他のページにも書いたように、加藤泰監督が撮影していた『炎のごとく』という映画の現場をながめて撮影ルポを書くためである。セット撮影の現場には都合二ヶ月通いつめた。日曜祝日にはロケにもついていった。そのとき毎日のように顔を合わせていたのが若き製作担当の丹羽氏である。特別に親しくなりはしなかったが、ヒゲとベレー帽の印象的な丹羽氏が、夜になると足繁く撮影現場に通ってくる僕を何か奇異な生物でも見るような目で見ていたのが強く心に残っている。 
 それから二十二年後、僕は丹羽氏と再会する。今度は松竹京都映画撮影所内の映像京都の事務所である。深夜、三村晴彦監督が役所広司主演のテレビ映画『盤嶽の一生』の夜間ロケから戻るのを待っていたとき、製作担当の丹羽氏がいるのに僕が気づいたのである。懐かしさのあまり自己紹介をする。再会を懐かしむ。だが…丹羽氏も僕のことをほとんど憶えてくれてはいなかった。
 僕はそれなりに目立つはずなのになぜだろう。これでは透明人間である。撮影所はアクの強い奇人変人ばかりだからだろうか。それともいちいち記憶している僕が特殊なのだろうか。もちろん彼らにとって僕が一時的な通過者でしかないことはわかっている。僕にしたところで十年前に一、二度仕事でやって来ただけの得意先の社長を記憶しているかどうかあやしいものである。。だが、しかし、それにしても…。
 いやいや、映画の製作現場というものに対する僕の思い入れがたんに強すぎるだけなのかもしれない。
「透明人間あらわる」
「ペタペタ」 「ペタペタ」
2004年11月17日撮影

 このサイトのメンテナンスのために東京から僕の仮住まいまで出向いてきてくれたN氏がいった。「ここにはサンダルはないの?」 
 サンダルとはなつかしい言葉である。ツッカケともいったようだ。子供のころ履いていたような記憶がある。だがいつしか履かなくなってしまった。サンダルのようなどこかはかない履き物は大きくなってからは履いたことがない。歩くたびにペタペタと足から離れる感覚に違和感がある。もちろんタビも履かない。だいいちサンダルではこんな河原は歩けない。屋根に上ってカワラの上も歩けない。だから僕の履き物はかわらない。靴ならどこでも平気で歩ける。近所にゆくにも靴である。僕のところには靴しかないのだから自然と靴である。それ以外のリクツはない。そのことに疑問を抱いたこともない。それもローファーと呼ばれるような革靴であって、ビジネスマンが履くような紐靴ではない。もともとヒモ暮らしなど性に合わない。だが長靴なら仕事場に置いてある。ただし僕はネコではない。画像のような河原を歩くため、川の中にもジャボジャボと入るためである。
 ところがこの天然の河原は消滅してしまった。2005年の3月になって、川の中でブルドーザーが動いていると思ったら、数日のうちに荒涼たる河原が平坦な川になってしまった。なんとはかないことか。行政は荒涼というのがお好きではないようである。
 平坦画像は「鴨川・春」→「春風」にあり。
「橋」 『橋』
2004年10月12日撮影

 山中貞雄少年が通学のために渡った正面橋を、僕も毎日のように渡る。

構想中。 
「迷い道」 「迷い道」
2004年11月3日撮影

 僕は方向オンチではないものの方向感覚が少しおかしいようである。通りに面した商店があるとしよう。僕はむかって左側から来て店に入る。買い物を済ませて店を出る。自分ではもと来た道をちゃんと戻っているのに逆方向へ歩いて行ってしまう。しばらく行ってから目の前に見知らぬ異世界が広がっていることに気づき、愕然とする。理由がすぐには理解できないから、背筋が凍りつく。どうやら店のなかで僕以外の世界…いや僕自身の方向感覚が無意識のうちに180度回転してしまうらしいのである。
 僕が何を言っているかおわかりだろうか。もう少し説明をしよう。ある大書店へ行ったときのこと。店内中央の少し入り組んだ位置にあるトイレに入った後、ふたたび売り場へ戻るつもりで女性用トイレに突入してしまった。この書店の場合、男性用・女性用が並んでいるのではなく、互いに90度の位置関係にあったのである。通路の途中の右側に男性用トイレ、反対側は壁、通路の奥が女性用トイレという構造だった。トイレから出た僕は、左手にある売り場に戻るつもりで右手奥の女性用トイレに行ってしまったわけだ。僕はもと来た通路を戻っているのになぜこんなことになるのか。僕がトイレの中にいるうちに男性用トイレと壁がクルリと180度回転してしまっている、僕のおかしなアタマの中で互いの位置が入れ替わってしまっているのである。つまり僕は男性用トイレの向かい側にある壁の中から出てきた(!)つもりでいる。だから勝手に180度回転してしまっている僕の主観からいえば売り場と女性用トイレの位置関係がいつのまにか逆転してしまっていて、僕は通路の左手奥にある女性用トイレに突入してしまうのである。
 そういえば、僕がむかしよくやった遊びに左右逆転というのがある。まず目を閉じる。そして想像する。今僕が北を向いている場合なら、じつは南を向いているのだと。これには細部のリアリティの確立が必要である。手近なところから始める。自分の身の回りから初めてだんだんと外の世界のディテールにまで逆転を広げてゆく。そして僕以外の世界のすべて、いや宇宙までも完全に180度回転させ、確かなリアリティを獲得したと確認できたところで、おもむろに目を開ける。すると僕の造り上げた虚構の世界全体が瞬時に崩壊するのである。あぁ、めまいにも似たその感覚…。こんなことを子供の時からやっていたせいだろうか、今も人生の迷い道を僕は歩いている。
「ピレネーを越えて」 「ピレネーを越えて」
2004年8月11日撮影

 メガネをなくしてしまった。僕のメガネ。なにより大事なメガネである。国籍はフランス。メーカーはアン・バレンタイン。色はブラウン。素材はセル。今ふうの細長フレームではなく、僕にお似合いのセンスある丸型である。
 仕事中にプラッターという運搬用機械に顔面から激突して一度壊してしまい、その時点でもすでに製造中止の品だったから、グラッシーズの佐藤氏と後藤氏に無理をいって修理用の各パーツを本国で個別に探してもらい、数ヶ月後にやっと揃ってかろうじて復活を遂げたという大事な品。ふたたび届いてきたときの感動は忘れない。あれがなくてはまさしく身の破滅。もし見つからなかったらメガネ求めてピレネー山脈を越え、かの国をさすらわねばならぬところであった。
 どうしてこんなことになってしまったのか。そもそもプロフィールページ用の小物の撮影に凝ったのがいけなかった。バイクは高瀬川べり、自転車は鴨川べりで済ませ、メガネは正面大橋脇の鴨川右岸に残る古い石段の上を選んだのが運の尽き。石段の横から滑り落ちたメガネはあれよあれよと草むらの中に消えてしまったではないか。
 必死の捜索にもかかわらず見つからない。そこへ夕立がやって来た。ここはやむなくいったん退却。天気の回復を待つ以外にはない。その間に用意するもの。箒、カッターナイフ、バケツ。カッターで手当たり次第に刈り取った草を箒でバケツに入れるのである。再捜索を開始後も見つからず、次第にパニックになってくる。宵闇迫ればさらなる絶望の波が押し寄せる。うろたえてはいけない。ふと川の中を見た。野鳥が一羽。自分の周囲を探してくれているではないか。ありがとう、野鳥。見ず知らずの君の厚意が身にしみる。
 ふと上の道路を見上げる。近くの親戚宅で法事でもあったらしい黒ずくめの男女4人が不審げに僕を見おろしている。いかん。河原でカッターナイフ片手に箒を振り回すなど常軌を逸している。かくなる上は先手必勝。「すみませーん。さっきメガネを落としたんですー」 箒はペンよりも強かったのだろうか、親切な4人連れが石段を降りてきてくれた。5人+1羽で再捜索開始、これぞ背水の陣と悲壮なる決意を固めたとたん…見つかった。メガネは階段脇の石垣に生えた草の根っこに引っかかっていたのであった。 
 やれやれ…ピレネーを越えずに済んだ。
「悲しみの風」 「悲しみの風」
2004年10月13日撮影

 サクラとヤナギの枝振りにはどこか奇怪な趣がある。このヤナギの枝のなびき方など、レイ・ブラッドベリの短編集『十月はたそがれの国』の世界とどこかつながっているように僕には思われる。イタリアの画家ジョセフ・ムニャイニ描くところのあの世界である。
 はじめてブラッドベリを読んだのは高校生の時、小笠原豊樹訳のHPB・SF3032『太陽の黄金の林檎』であった。巻頭に『霧笛』が置かれていて、この配置にまず圧倒された。一年に一度だけ、霧笛の吠える夜に岬の灯台をめざして浮上してくる太古の恐竜。ひとり生き残って深い海の底で仲間を待ち続けるという孤独。愛と孤独ゆえに愛するものを破壊してしまわずにはいられないというその孤独。ここには若すぎもせずまだ老成もしていないブラッドベリがいる。
 『霧笛』に心惹かれたらもうやめられない。『霧笛』に始まり『四月の魔女』『荒野』と続き、『白黒対抗戦』『山のあなたに』を経て『歓迎と別離』『太陽の黄金の林檎』で幕を閉じるというこの短編集の配列構成にも非の打ちどころがない。くわえて各短編の完成度がこうも高くては、短編小説家としてのブラッドベリが1950年代の前半までで実質的に終わっているのも無理はないという気がする。
 『火星年代記』(1950年)、『刺青の男』(1951年)、『太陽の黄金の林檎』(1953年)、『十月はたそがれの国』(1955年 ただし元版の『DARK CARNIVAL』は1947年)、四冊もあればじゅうぶんではないだろうか。


「台風のあと」
「台風のあと」
2004年10月21日撮影

 2004年は台風の多い年だった。
 列島に上陸した台風の数は十に達したという。僕は台風が来るたびに激しく増水した鴨川の流れを七条大橋か正面大橋か五条大橋上からデジカメ画像に収めたいと願いながら(なんたる不純な、だが切実なる願いであることよ!)台風が京都市付近を通過する時刻の関係でついにこの程度の規模の増水画像しか撮ることが出来なかった。
 小さい頃は台風が来るのがたのしみであった。
 雨が叩く。風がうなる。気圧が変わる。家が揺れる。瓦が飛ぶ。電気が消える。ろうそくを灯す。鴨川が増水する。ラジオの台風情報(テレビはまだない)に一喜一憂する。学校が休みになる。なによりあの胸騒ぎにしびれ、胸が不安にときめき、緊迫感に心の鳥肌が立つ。こんなことを言うのは不謹慎な人間である。
 さらに台風の去ったあと、七条大橋や正面大橋や五条大橋の真ん中に立ち、増水した鴨川の濁流がゴーゴーとうなりをあげて通過するのを見おろすことがいちばん好きであった。井桁状の消波ブロックも濁流に水没した世界。垂れ下がった電線。倒れた木。洗われた空気。学区内の被害を見回る校長先生の一行。翌朝の学校ではクラスのみんなの顔がどこか違う。雰囲気が違う。どこかよそよそしい。なにかがリセットされたようでどこか照れくさげである。突然新学期が始まったような気持ちになる。でも授業が進むとすぐに忘れてしまう。違和感が消えてしまう。もとのクラスに戻る。
 あれはなんだったのだろう。台風の激しい雨と風は京都市街や鴨川や高瀬川ばかりでなく、僕らみんなの心の中をも通り過ぎていってしまったに違いない。        


inserted by FC2 system