鴨川・

京都市の北東から流れ込む高野川と北西寄りから流れ込む加茂川が出町柳で合流して鴨川となり、
京都市街の東寄りを北から南へと縦断して流れる。
上流では河原が整備されて河川全体が公園化しているが、
下流にあたる五条大橋から七条大橋までの右岸は未整備のままであり、
古き鴨川の面影がそのまま残されている。





「半沢直樹」
(2014年5月6日撮影)

 ドラマ「半沢直樹」の前半部分には、東京中央銀行西大阪支店・融資課長の半沢直樹が部下や同期に窮地を救われるという場面がしばしば登場する。
 つまるところこれは、1960年代後半、多くの観客大衆を映画館に集めた東映ヤクザ映画ではないだろうか。かつての東映ヤクザ映画路線と銀行ドラマではあまりに違うだろうか?僕はそうは思わない。東京中央銀行本店にいる中野渡頭取を東京中央連合会・本家の総長、大和田常務を本家の幹部、同期の渡真利と近藤を半沢の義兄弟、西大阪支店の浅野支店長を系列下の支部の代貸、半沢融資課長を若頭、半沢の部下たち(モロ師岡が演じる角田という年長者もちゃんといる)を舎弟分に置き換えれば銀行が立派な任侠の組織になる。前半部分(大阪編)の第四回だったか、融資課の部下の一人である垣内という青年行員が半沢の窮地を救うシーン。支店長が席を外した隙に半沢たちが支店長室に侵入、不正取引の証拠となる通帳を見つけるのだが、そこへ支店長が戻ってくる。そのとき、どちらにつくか態度を決めかねていた垣内がドアノブに手を掛けた支店長をフロア側からわざと呼び止め、「お話ししたいことがあります」と別室へ誘導して半沢たちを救い、「やはり私は半沢課長を裏切ることはできません。半沢課長を監視する役目は辞退させていただきます」と告げて静かに、だが毅然として反旗を翻すのである。
 支店長「(垣内にむかって声を荒げ)まったくバカばかりだな、あの男の部下は!」
 垣内 「あなたにはいないのでしょうね。そういう、バカな部下は…」
 そう言って退出する。
 胸の熱くなるようなセリフでありシーンである。これが東映ヤクザ映画でなくして何であろうか。違いはといえば、ここで垣内が代貸(いや支店長)に刺されて絶命するかしないかというその一点にしかすぎないのである。 
 つまり僕が言いたいのは、日本人的なメンタリティということである。僕は60年代後半の東映ヤクザ映画が今でも大好きだが、しかしヤクザや任侠道が好きなのではなく、マキノ雅弘から深作欣二までを含めた東映ヤクザ映画の、ヤクザに仮託して描かれた日本人のメンタリティというものが好きなのである。マキノ雅弘はこんなことを言っている。「侠客というのは必ずしもヤクザではない。市井の人々の中にも侠客はいる」。だとすれば銀行員の中に侠客がいたとしても何の不思議もない。映画やテレビでくり返し映像化がなされてきた「忠臣蔵」に話を移してもいい。金融庁の黒崎検査官に向けて携帯電話のメール画面を差し出すときの半沢直樹はまるで水戸黄門だが、耐えるときは大石内蔵助のようにも時として僕の目には映るからである。だが僕の胸を奮わせるのは亡き主君の仇を討つという四十七士の忠義ではなく、その過程において描かれる脇の人々の義侠心である。たとえば大石東下りにおける垣見五郎兵衛のエピソード、東海道の宿場で自分の偽物と偶然出くわし、旅籠まで談判に乗り込んだ日野家用人・垣見五郎兵衛は、それが討ち入りの武器を江戸まで運ぶ途中の元赤穂藩城代家老・大石内蔵助であることを見抜くや、自らが偽物となって大石に詫び、本物であることの証の道中手形まで与えることで大石たちの武運を祈るのである。あるいは刃傷事件前の畳屋の親方のエピソード。その日の仕事を終えて一杯機嫌だった畳屋の親方は、呑み友達だった堀部安兵衛にたたき起こされて事情を聞き、彼の窮地を救うべく、江戸中の畳職人を呼び集めて伝奏屋敷の畳替えを翌朝までに成し遂げてみせるのである。むろんいずれも後世において付け加えられたフィクションであって史実ではない。しかしフィクションであるだけに日本人的なメンタリティとしての義俠心というものがよく発露されていると思うのである。「半沢直樹」や「忠臣蔵」に描かれた義俠心の前には、芝居がかった土下座も討ち入りもべつになにほどのものであるとも僕は思わない。
 銀行員、ヤクザ、武士、町人の別を問わず、義俠心のない人間は僕にいわせれば人間ではない。フィリップ・K・ディックがいうところの《アンドロイド》である。ディックが小説の重要なテーマのひとつとした人間とアンドロイドとの違いは、義俠心の有無ということに尽きるのではないだろうか。
(2014年6月4日更新)




「パナマ運河・スエズ運河」
2011年4月11日撮影

 鴨川に架かる正面大橋から北をながめると、手前西寄りに自然がたわむれに造りたもうたささやかなる水の通り道がみえる。
 これはパナマ運河であろうか、スエズ運河であろうか。どちらでもあり、どちらでもないともいえる。いやまさか小樽運河ではあるまいとは思うものの、読んだことはないがアリステア・マクリーンの『麻薬運河』だという可能性もいちがいに否定はできない。川端通りの並木のサクラが開花する頃からこの鴨川の流れに入って何日もかけて水底の砂利をならしていた赤いブルドーザーも、この運河には手をつけぬままに去ったようである。
 それにしても2011年に入ってからのこの「鴨川の空」の更新ぶりには目を瞠るものがある。2010年にはわずか一つ(それも1月のことである)しかできなかった新規更新がこれでもう四つか五つ。加藤組の撮影ペースなみの作業効率の悪さを誇ってきた僕としてはまさに怒濤の更新ぶりであるといってよい。理由はわかっている。あるところから新たな水が流れ込んできて僕のアタマの中にもちょうどこれくらいの規模の水路が開通したらしいのである。このところ毎日のように正面大橋の上から自転車に乗ったままこの運河を見おろすたびに何か心にひっかかると思っていたが、そうか、これは僕のアタマの中か。僕は自分のインナー・スペースを鴨川に見ていたのか。そのことが昨日わかった。
(2011年4月4日更新)
 





「鴨川孤影抄」
2009年3月18日撮影

 某日ハゲヤマさんから電話があった。ハゲヤマさんは多田製張所にとって大事なお得意先の社長であり、彼がまだハゲヤマではなかった1970年代前半から懇意にしていただいている。ハゲヤマさんは日々超多忙である。ハゲヤマさんの外側では常時複数の仕事が多元宇宙なみに進行していて、ハゲヤマさんの内側でも複数の企画が平行宇宙なみに錯綜している。ハゲヤマさんが電話してきていうには近々貼り合わせの仕事があるという。早ければ連休前にはそれにとりかかりたいという。ハゲヤマさんがその件で数枚の見本貼りを持ってきたので即座に作って渡した。ハゲヤマさんはアメリカの短編アニメのロードランナーみたいで、彼が静止している姿を僕はほとんど見たことがない。顔をよく見てみようと思ったときにはもう見本貼り片手に帰ってしまっていないから、ハゲヤマさんの容姿をクッキリとは思い出すことができない。でも電話はかかってくる。あの仕事はキレハを入れてセロテプ貼ってこういう形になるけれども大丈夫?わかるね?とたたみかけてくる。ぜんぜんわからない。ハゲヤマさんはその仕事の企画立案者で設計者だが、僕は一介の下請け業者で受け身の立場でしかないから、彼が矢継ぎ早に仕事の詳細について説明をしてくれても僕にはただ「あわあわあわ」としか聞き取れないことがある。ハゲヤマさんからまた電話がかかる。その仕事の前に別の仕事がありそうだという。それはハゲヤマさんのさらにお得意先が絡んでいるからハゲヤマさんのせいではない。でも要領を得ない話である。今のところどちらの仕事も見込みが立たず、いや、さらにもう一つ別の仕事でこれもまたまたまた予定は未定の話まであったような気もする。いずれにしてもさだかな話などここにはなく、魚の影が見え隠れはするが掴むにつかめず雲の影にも変わる。
 僕は昼の食事時に通りかかる正面橋に自転車を止めてたたずみ、サギの姿をただ見おろすばかりである。





「親和力」
2008年4月22日撮影

 このひとは僕の知人である。毎日のように顔を合わせているひとである。いつも鴨川にいるひとである。仕事合間の昼休み、食事帰りの僕が自転車で鴨川の河川敷を通りかかるとこのひとがいる。食事中または食事前のようである。僕が川岸に腰を下ろすと徐々に近づいて来られる。川面を一心にのぞき込んで小魚をさがしながら僕の方に近づいてきて至近距離を悠然と通りすぎてゆく。そのようにして顔見知りになったひとである。通り過ぎるとき僕を見ておられるのがわかる。丸い小さな鋭い目である。おそろしい目ともいえる。図鑑や映画で見た恐竜の目に似ている。僕の前を通り過ぎ、しばらく遠ざかった地点で歩みを止め、しばし水中を物色して大きめの小魚を捕らえ、くちばしでいちど横にくわえてから呑み込んでしまわれる。それを毎日のように僕はながめている。これはなんであろう。編集顧問のN氏は親和力であるという。だが僕にそのような力があるとも思えない。思えないがこのひと、周辺にべつの通行人がなにげなくたたずんでいたりすると僕の方に近づいてこようとはしない。一声発して正面橋の南側へ飛び去っていってしまうのである。
 なんだかよくわからないが、親和力説にも三分の一理くらいはあるような気がする…こともある。
                             
「コサギアオサギ」
2008年4月11日撮影

 雨あがりの昼、塔影のもと、いくらか増水した五条大橋南の井桁の上にコサギがいてアオサギがいる。
 それ以上僕などが何をいうことがあろうか。


「いずこへ」② 「いずこへ」②
2007年4月9日撮影
 
 電車は京都駅に近づいている。
 それにしても大きなトランクである。それに僕の目にややちぐはぐに映る服装はなにを意味しているのだろう。国内旅行ならここまで大きなトランクは必要ないはずである。海外旅行と考えるのが自然だろうが、彼女には部屋代の支払いが差し迫っていると給与の前借りを依願されたこともあったことがひっかかる。現に今も心弾んでいる様子には見えず、むしろ都落ちの風情すらただよわせている。自己の内面になかば閉じこもっているらしく、うつむき加減で僕に気づく気配もない。度付きサングラスにキャップ姿の僕をマジマジと見たとしてすぐに彼女が思い出すという可能性も低いだろう。
 電車が京都駅に着く。ドア近くにいる彼女の方が先にホームに降り立つ。乗客はみな同じ方向に歩いてゆくが、関西国際空港行きの「はるか」に乗るなら山陰線のすぐ隣のホームである。だが大きなトランクの彼女はそちらには向かわず、京都駅中央改札口方向に移動してゆく。やはり海外旅行ではない。とすれば、残る可能性は新幹線である。だがそれも違った。新幹線に乗り換えるならば山陰線ホームと中央改札口の中間地点にあるエスカレーターで跨線橋に上がるはずである。跨線橋に上がらない以上、あとは改札を出るか…日本一長いといわれる京都駅の0番線ホームがあるだけである。なるほどそうか、彼女が北陸方面に向かう電車に乗り換えるとすれば、0番線ホーム以外に選択肢はないのである。
 女子大生時代からの京都暮らしについに終止符を打って郷里へ帰るのだろうか。もちろん確信はないし呼び止めて確認する気もない。余計なお世話であるうえに、僕には僕の用事がある。たとえ用事がなくとも気安く声をかけて空疎な会話を交わしたりすることはためらわれる。
 だが、ある種の感慨めいたものはたしかに胸にある。もしかりに僕の勝手な推測どおりであるとすれば、サクラ咲く季節に京都を去って郷里へ帰る彼女を、偶然にも僕が陰ながらであるにせよ見送ったことになるのかもしれないのだから。
「いずこへ」① 「いずこへ」①
2007年4月3日撮影

 日曜日に仕事をするにしても夕方には早めに切り上げてしまう。いったん帰宅して着替え、円町駅から京都駅行きのJR山陰線に乗った。混雑する車内の僕から少し離れたところにいる乗客に見覚えがある。黒髪を後ろで束ねた30代後半の女性である。ドア近くにキャスター付きの大きなトランクと衣類でも入っているらしい手提げ袋を抱えて寡黙に立っている。上着が黒地に細いストライプの入ったスーツのわりには中に着ているものが奇妙にラフである。こちらには気づいていない。
 思い出した。数年前、仕事場を現在の「鴨川の空」の下に移す前、今は「廃墟」(→「ふぞろいの遺跡たち」ページ)となった仕事場で三ヶ月という前提でパート労働をしてくれた女性に違いない。僕は多田製張所へ働きにきてくれる女性には個人的なことを訊ねないようにしているから、なにも知らない。今では彼女の名前すら忘却の海の砂の底である。ただ、採用時に履歴書は受け取った。その記憶でいうと、富山県の出身であった。京都の女子大に通っていたが中退。郷里へは帰る気がないのか帰りにくいまま時を経てしまったのか、その後どのような暮らしを経て多田製張所にまで流れ着いたのかはむろん知らない。ひとつわかっているのはかなりのパソコン好きであったらしいこと。始業の朝9時を過ぎ9時半になってもまだ出勤してこないので電話をしたことがあった。電話に起こされたらしく、照れ笑いを自転車に積んで飛んできた。前夜遅くまでパソコンに励んでいたようである。また一度だけだったが、次の土曜日は休ませて欲しいというので理由を訊ねると、東京の喫茶店でパソコン通信仲間のオフ会があるという。僕がパソコンに触れたこともない時代のことである。少なからず興味はあったが、あなたのお部屋のパソコンを見せてくれとはさすがに言い出せなかった。パソコンのみならずご当人にも興味があればきっと申し出ていただろうが、興味を持つことを僕にためらわせる何かが彼女にはあった。
 





「黄砂2007年」
2007年4月2日撮影

 2007年はまた異変の多い年であった。老いた地球の疲弊は覆い隠すべくもなかったが、極東の大陸に弓なりに寄り沿う島国の西部には遠くタクラマカン、ゴビの両砂漠から風に巻き上げられて飛来した大量の黄砂がはるか上空から降りそそぎ、鴨川からのぞむ東山連峰をぼんやりとかすませて比叡山を消し去り、また目に見えぬほどの微細な砂粒は人びとの心にも降り積もって暗く染めあげた。それは火星の東キャナル市に舞う砂嵐にも似て
未完
「紅い鴨川」
2005年5月30日撮影

 これほど紅い鴨川は僕も見たことがない。もちろん天然素材100パーセント。いかなる着色も加工の手も加えてはいない。この日、この時間、僕の目の前にはこのような色の夕空と鴨川がつかの間だが存在したのである。
 夕刻7時頃、仕事を終えて帰宅しようとバイクにまたがり西の空に目をやった。空の一部分だけが強烈に紅い。これはいかん。胸騒ぎに駆られ、あわてて鴨川に架かる正面大橋へとむかう。橋の上から見ても鴨川がとてつもなく紅い。これほど紅い鴨川は見たことがない。スタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」のクライマックス、スターゲート後半のシーンにこれはどうだろう。橋を渡りきって川端通りの舗道上にバイクを駐め、ヘルメットを脱ぎ捨てる。フルフェイスタイプを装着したままではまるでボーマン船長みたいだし、ファインダーもうまく覗けないのである。
 ところが不思議なことに、いや不思議でもないのか、空が紅く鴨川が紅いのはまさしくこの部分だけである。あとは青い夕空。画像の空の右上の部分が青くなりかけている点にご注目願おう。この先は青いのである。空も青く鴨川も青い。青い部分も同一画像内に入れ込もうと移動してみたが、広角レンズがないと無理なことがわかった。たとえ広角レンズがあっても僕のコンタックスには装着はできないが。しまった、正面大橋の上から撮ればよかったのである。そう思ったが、クルクルと自転する地球は僕を待ってはくれない。どんどん暗くなってゆく。ここは断念するしかない。せめても目の前の紅い鴨川をカメラに収めるのが今の僕に可能なことなのである。すこしずつ北へ移動する。移動しつつ約10枚ほど撮ったと思ったら、日が暮れた。
 この次にここまで紅く染まった鴨川を見ることができるのはいつの日か…。 
「紅い鴨川」
「夕日が沈む」
2005年5月19日撮影

4月30日の高瀬川(高瀬川春→「ヘンダースン夫妻」)につづいて、こんどは鴨川である。
 一日の仕事が一段落した。夕暮れの鴨川に出て撮影である。今日は正面大橋を渡り、川端通りをすこしだけ北へ歩いた土手の上から対岸の夕焼け雲と水の流れを撮っていた。そこへ飛んできたのが足の長いダイサギ。「あ、大きな鳥だ。」僕がいったのではない。下の遊歩道を自転車で通りかかった外国人のカップルがいったのである。視線が合う。デジカメを持った僕を見てニコニコしている。僕が下へ降りてゆく。「あれはなんていう鳥?」「ムニャムニャ(この時点ではダイサギの名を知らない)。きみたちはアメリカ人?」男性はシェーン。ロスに住んでいる。女性はメアリ。メアリはアメリカ人だが、マークはカナダ人だとメアリが教えてくれた。「写真を撮っていい?」なんだかんだといって六枚も撮った。シェーンがメアリの腰に手を回したり、肩を抱きかかえたり。こういうとき外国人のカップルはじつに自然で堂々としている。彼我の文化のちがいだろうか。
 「観光?それとも仕事?」と尋ねたら、両方だという。シェーンは日本語がすこし話せるようだった。名前を問われたので僕の名刺を手渡したら「タダサン。」と握手を求めてきた。漢字の上にローマ字表記をしておいたことが役に立った。もちろん僕の英語はカタコトである。でも曖昧な笑みを浮かべたりはしない。僕が相手のいうことをなんとかわかろうとしていて、相手も僕のいうことをわかろうとしているのだから通じないはずがないのである。すこし話をして別れた。夕日を浴びながら上流の方へ走り去ってゆく二人を見送る。メルアドは書いてもらった。写真を添付で送ろう。
 しまった。名前を問われたとき「woody allen」と答えてみればよかった。僕は知的なメガネ顔がすこし似ているらしいから、ウケたかもしれなかった。 
「夕日が沈む」
「春風」
2005年5月10日撮影

 春風が鴨川の水に風紋を描き出して北から南へと吹き渡ってゆく。春風のなか、画像右手の整備された河川敷を上流に向かって歩けば、または自転車で走れば、京都市街を南から北へと縦断することができる。五条ー四条-三条ー御池ー丸太町…主要な東西の通りに架かる橋の下を通過して今出川通りまで到達することになる。
 鴨川は、今出川より上流は加茂川と高野川に分岐している。いや、加茂川と高野川が合流して鴨川になるというのが正しい。東側から流れてくる高野川には整備された河川敷はない。川幅も狭い。対照的に西側から流れてくる加茂川は川幅も広く、河川敷も広く、全体的に整備されて川全体が公園化している。
今出川でいったん河原から上がり、河合橋を渡って西側の加茂川の河川敷に下りれば、今出川までやってきたのと同じように、北大路ー北山…さらにその先までも行くことができる。だが僕は全体が公園化した加茂川よりも、どちらかといえば手つかずのままで河川敷を歩くこともできない高野川のほうに親しみをおぼえるのである。
 鴨川に戻ろう。
 この画像は正面大橋から北を見ている。「鴨川・冬」ページ・トップの「心はめいる気はあせる」の画像とはちょうど逆ポジションになるから、彼方に見えるのが五条大橋である。水量の少ない時期、正面大橋付近の川の水は浅く、長靴を履いて渡れないこともない。夕暮れに鴨川の水に犬を放している人もいた。とはいえ、ところどころには深みになっているの箇所もあるから要注意である。画像のように水は澄んで、のぞき込みさえすれば無数の小魚の泳ぐのが見える。メダカもいればフナらしき大きな魚もいる。カメの棲息しているブロックもある。正面橋の浅瀬では見かけないが、この南の七条大橋付近は深みになっていて、流れに腰までつかって投網をしている人を見かけることもある。五条大橋付近では長靴を履いて水に入り、釣り糸を垂れている人もいた。いずれも年配の男性で、あれはアマチュア釣り師であろうか。
 昼休みの正面大橋に立ち、五条大橋をのぞめば、ああ肌に春風を感じる…。
「春風」
「鴨川幻想」  
2005年5月10日撮影  

 ホリゾントに描かれた夕空の上から巨大な手が伸びてくる。
 巨大な手が比叡山と北山連峰の蒼い切り出しをホリゾントの手前にはめ込んだ。巨大な手が手よりさらに長くて大きくて湾曲したものを取り出してきたと思ったら、あれはなんと、鴨川の左岸らしい。スパイクの底みたいに突き出ているのは、はめ込み用の突起だろうか。左岸の土台からはビルが突き出している。ビルだけはもともと埋め込んであるようだ。次に左岸上の樹木が次々と植え込まれてゆく。ぎゃ、ズシ~ンンとすごい地響きがしたと思ったら、右岸が上空から飛んできた。もうもうたる土煙だ。おいおい、投げつけることはないだろう。もう少し丁寧にできないものかね。続いて水のない鴨川にミニチュア細工みたいな五条大橋が差し込まれたところである。わッ、たいへんだ。巨大な手が特大のじょうろを持ち出してきたではないか。イグアスの滝なみの水がジャボジャボこぼれてくる。そしてじょうろを傾けるや大量の水が落ちてきて、クルマのいない高速道路みたいだった鴨川の平らなくぼみがたちまちにして満水状態となる。もうあふれる~と思ったとたん、巨大な手が指をパチン!と鳴らす。すると、ブ~ンという機械のうなる音がして、あら不思議、鴨川の水が上流から下流へと流れ始めたではないか。度肝を抜かれているうちに山ぎわもほんのりと赤く描かれて、原寸大箱庭キット「鴨川宇宙」のできあがりである。
 …こんな幻想を抱いてみたくなるような、鴨川の春の夕暮れ。
「鴨川幻想」
「橋の下にも」
2005年3月20日撮影

 僕が子供の頃「街の下にも街がある」というテレビドラマがあった。街の下にある街というのは、大阪梅田の地下街のこと。ドラマの主人公はミヤコ蝶々演じる地下鉄の切符売りのオバサンで、地下鉄の改札口付近に立って、回数券を一枚ずつバラ売りすることでほんとうにささやかな利ざやをかせぐのである。僕も大阪梅田の地下街の地下鉄改札近くで本物を見たことがあるが、大阪まで行くまでもなく、そう…今のよりもずっとまともな先代の京都駅が建っていたころ、京都駅前の市電乗り場でバラ売りの回数券を一枚買った記憶がある。だが大阪の地下街のオバサンたちは万国博だったか花博だったかが大阪で開催されたのを契機に、当局の手によって強制的に排除され姿を消してしまったはずである。
 京都の橋の下にも、人がいて、暮らしがあって、ねぐらがあった。この画像の右上に見える鴨川堤防の整然たる石垣のむこうあたりをかつて京阪電車が走っていた。今では京阪電車は地下にもぐっているが、七条駅から三条駅の間のサクラ並木のトンネルを電車が通り抜けるさまは、電車に乗っていても、電車をながめていてもそれは見事なものであった。七条駅はちょうどこの石垣の上、鴨川に向かってせり出すような形で設けられていて、その真下では今でいうホームレスの父子が暮らしを営んでいた。台風のとき、この橋の上を通りかかって下を見おろしたことがある。彼らのねぐらのすぐ足もとにまで増水した濁流が押し寄せ、今にも呑み込まれてしまいそうであった。僕は胸のつぶれそうな不安で、胸の張り裂けそうな恐怖で正視することができず、それからしばらくは鴨川を渡っても七条大橋の下を見ることができなかったから、彼らのその後の消息を知らない。そして日常生活の中でそのことも忘れてしまったのである。 
「橋の下にも」
「『峰』を喫う人」 「『峰』を喫う人」
2004年5月25日撮影

 その映画監督と京都市中京区の河原町通りに面したホテル一階の大きなティールームで待ち合わせたのは、1973年10月の夜であった。
 僕からの初対面のプレゼントは遅刻である。彼に面会した理由はここでは省く。もっと作品の話を聞いておけばよかったと思うが、「江戸の町の火事が違うというて伊藤先生に怒られてしもうた」と笑っていたのを思い出す。彼は師匠格にあたる伊藤大輔の脚本で眠狂四郎と座頭市の二本の映画を撮っていた。だが今現在の僕の目から見るとその二本にはある種の自縄自縛があって、星川清司の脚本で撮ったときのような余裕や色気が感じられないのである。
 面会した年の12月末、僕は右京区太秦の東映京都撮影所のステージでテレビ時代劇のセット撮影を眺めていた。大映や京都映画がホームグラウンドであったはずのその監督が珍しいことに東映で仕事をしていたからである。一段高いセットの上で演技をつけていた監督は僕を見つけると声をかけてきた。「オッサン。今日はなんやー?」甲高い声であった。スタッフたちが一斉に振り向き、投げられた声の先にいた僕を注目する。僕はたまらず逃げ出した。今では適当に図々しくもなれる僕もまだ若かったのである。帰ってすぐに困惑と親愛の情とを込めた年賀状を書いた。「僕のような青年でもオッサンでしょうか?」 返事が来た。「小生の息子(中二)でもオッサンですから貴君は立派なオッサンであります」 その時は不可解であった。だが現在の僕には青年に対して「オッサン」と呼ぶ中年男の感性や心情が理解できる。その半年後、僕が新聞で見たのはその監督の訃報であった。52才。ホテルで話したとき、監督が喫っていたタバコが「峰」という銘柄であったことを思い出す。どことなく剣の鈍い光を想起させるあの独特のパッケージデザイン。1960年代大映時代劇の第一人者として市川雷蔵と数々のコンビを組み、『斬る』『新選組始末記』『眠狂四郎炎情剣』ほかを生み出し、勝新太郎と組んでは『座頭市物語』『座頭市血笑旅』などを遺した映画監督・三隅研次が喫うにふさわしい、いかにもふさわしいタバコだと僕は思った。
「空の高さはどれくらい?」 「空の高さはどれくらい?」
2004年5月25日撮影

 1964年10月10日に照準を合わせて盲腸で入院した僕は東京オリンピックを知らない。入院したのはいろいろといわくのある病院で、のちの話だが東映の大スターであるKサンがここに一時身を隠していたこともある。
 病室は二人部屋であった。同室の患者はさしたる病気ともみえず正体もしれない。ときおり店屋物の出前まで取っていた。男の右の手にはイレズミがあった。イレズミ自体はチンケな代物である。僕は「文化」のあるところで生まれ育ったため、立派なイレズミなら子供の頃から銭湯で見慣れている。イレズミ男にはしじゅう話をしにくる友人がいて、その男は隣室の入院患者らしかった。多少の人見知りをするとはいえ根は心優しい善人である僕は、次第に彼らと親しくなったものの、イレズミ男がまず退院して、次に友人が退院し、僕が退院する頃にはオリンピックも終わりかけていた。
 幻に終わった東京オリンピックの後、僕はその友人のほうの男と京都駅前でバッタリ出会っている。パジャマからヘルメット姿に変身していた男は「ちょっとついてこい」とぶっきらぼうにいって、先に歩いてゆく。男が入っていったのは建設中の京都タワービルであった。中学校の美術の教師が授業で嘆いていた代物である。エレベーターに乗る。ビルの屋上に出た。どこまでゆくのだろうと思っていると、そこからさらに工事関係者用のエレベーターに乗り換え、建設中のタワーをガタンゴトンと昇り、地上100メートルの展望台の工事現場に出たのである。それは新鮮な眺望だった。だがそれにしてもまわりの建設労働者たちが、とりわけ現場監督らしき男までもが、なぜか見て見ぬふりというふうだったのが今にして思えば不思議である。
 ひょっとすると僕は妙なことの第1号…そう、京都タワーに登った子供の第1号なのだろうか? 風のビュービューと吹き抜ける11月の宙空の寒さと高さと怖さを、僕はオリンピックのかわりに記憶している。
「ずれている」
「まわるまわるよ」
2004年5月14日撮影

 上の「義眼」の正面公設市場はこの写真のちょうど車両進入禁止の赤い標識のあたりにあった。奥に見えるのが東山連峰。橋の真正面の位置に清水寺三重の塔が見えている。
 これはじつに不思議なことである。正面大橋は七条通りと五条通りの間、それも七条通り寄りにある。ところが清水寺は五条通りよりもさらに北に位置している。その清水寺がなぜ正面大橋の真正面に見えるのか。これが子供の頃から僕を悩ませてきた。正面大橋は鴨川の流れに対して直角にではなく、やや北向きに傾斜した角度で架けられている。しかしそれにしても五条通りから眺めると五条通りよりも北側に位置して見える塔が、五条通りよりもずっと南にある正面通りの真正面に見えるのはおかしいではないか。正面大橋から清水寺までのどこかで空間が歪んでいる? いや、そもそもあれは本当に清水三重の塔なのだろうか。それとも立体描き割りのような東山連峰全体が京都市街の周囲を回り灯籠みたいに移動しているのか、それとも京都市街が回転しているのか?
 正面大橋に立ち止まって塔を眺めると、僕はだんだん自分がフィリップ・K・ディックの小説世界の住人であるかのような不安に襲われるのである。 
「義眼」
2004年5月25日撮影

 僕の生まれた家(現在では僕の仕事場がある)から高瀬川沿いに北へゆくと正面通りに出る。そこを東へ曲がってしばらく行く。北側に任天堂という石造りの奥行きの深い建物が目に入る。これがNINTENDO発祥の地である。それを通り過ぎると、仏具店の脇に置かれた大きな釣り鐘と、鴨川に架かる正面大橋が見える。鴨川を渡ると古びた商店街。七条千本の今の京都市中央卸売市場のあたりには平安時代から市が立っていたというが、正面通り商店街の場合はどうだろうか。通りの突き当たりに位置する豊国神社ができて以降のものであることは確かだろう。それにしたところでたいした歴史ではある。
 かつて商店街の正面大橋側の端には公設市場が立っていた。当時のにぎわいとともに、トンネルのような市場の中、入り口から左側一軒目の肉屋の主人を思い出す。彼の片方の目が、どのような事情からか義眼だったことが僕の子供心に強く残っている。主人が母親の注文をききながらふと傍らの僕に目を向けた時など、あの動かない目、大きな片目はいったいなにを見ているのだろうと僕は不思議に思ったものである。
 その市場も消滅して片側二車線の川端通りとなった。ここを疎水がゴウゴウと流れ、京阪電車が地上を堂々と走り、疎水と鴨川の間、つまり京阪電車の線路の両脇が桜並木であった頃を思い出す。春になると電車がサクラのトンネルを走り抜け、四条や三条に出かけることができたのである。京都と大阪をつなぐ私鉄である京阪電車の京都側終点は三条であったが、疎水が暗渠となって京阪電車が地下へもぐり、川端通りが拡張されると同時に出町柳まで延長された。現在ではそこから京福電鉄鞍馬線に乗り継いで鞍馬方面まで足を伸ばせるようになった。
 さて、京福電鉄鞍馬線の途中にある木野という小さな駅のあたりには、僕の青年時代のひとかたならぬ追憶も絡んでいるのだが、それはまた…別の話である。



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