鴨川・



「魚影」
2011年7月17日撮影

 夕刻の鴨川で僕のデジカメがとらえた黒い影。
 これはなんであろうか。
 撮影時の僕は気づいておらず、4秒後に同アングルで撮った画像にこの黒い影はない。
 鳥の影とは思えない。
 旅客機で片づけるには両翼がない。
 鳥も飛行機も4秒間ではこの画像内から飛び去ることはできないし、戦闘機ならば京都の鴨川上空を飛ぶわけがない。
 それよりなにより、金属製の飛行機ならば夕陽に照り映えて機体が輝きを放つはずである。
 ということは…ラドン。
 というには時代も飛行速度もちがいすぎる。
 飛行船のシルエットにはみえないし、現在この国の上空にある外資系保険会社の飛行船は東北方面の飛行を終えたばかり、今ごろは首都近辺を飛行しているはずである。
 では、これは、なんであろうか。
 これはどうみても、魚影である。そうとしか思えない。
 夏の夕暮れの大気の海を悠然と泳ぐ巨大な魚の影にちがいない。
 あるいは時間の大海を泳ぎ渡り、その裂け目を通してしか地上の人の目に触れることがないという幻の大魚の黒い影を、僕は夏の鴨川の夕空に垣間見たのであろうか。
(2011年7月25日更新)
 



「緑の鴨川」
2008年7月26日撮影

 「我が月は緑」ならぬ「わが川は緑」。「わが谷は緑なりき」ならぬ「わが川は緑なりき」。真夏の鴨川は緑の鴨川である。
「緑の鴨川」」
「幻の女」(シリーズ山陰線)
2007年6月22撮影

 朝、通勤のために乗るのは円町駅発8時7分、12分、17分のいずれかの電車である。この日の朝僕が乗ったのは17分発快速電車の先頭車両であった。同じホームから僕の直前に乗り込んだ女性の姿に見覚えがある。ただし僕の無実を証言してくれる幻の女ではなく、オレンジ色の奇矯な帽子をかぶっているわけでもない。背中にストレートの黒髪を垂らした女性である。数年前に多田製張所で三ヶ月だけパートで働いたことのあるさほど若くはない女性である。前回見かけたときは同じ車両内でも立ち位置が離れていた。しかし今度は真横である。だが僕が過去形のパートに声をかけることはない。また、声をかけたいタイプの人でもない。さらにむやみに声をかけられることなど

「井川徳道の世界」
2007年5月22日撮影

 正面大橋を左岸北寄りからとらえた、初夏の鴨川の昼の場景である。だが僕にとってこの画像はそうではない。この画像がもつ本来の意味、僕にとってこの画像が本当は何であるかということに気づいたのは、つい先夜のことである。
 ある目的から、僕は加藤泰監督の1964年度作品である「車夫遊侠伝・喧嘩辰」の主要な場面をDVDで再生していた。すると、クライマックス直前の一場面の構図がこの画像と酷似していることに気づいて僕は愕然とした。その場面とは桜町弘子に見送られた内田良平が主題歌の流れる中を果たし合いに向かう夜のシーン。水の流れというよりも澱みがあって、左側に草むらがあって、正面に見える小さな橋をシルエット気味の内田良平が渡ってゆく。この野面セット、橋の規模こそ違え、まるでこの画像と同じではないか。
 なるほどそういうことだったのか。僕は納得するものがあった。自分が何をやっていたのか、自分が何に触発されていたのかがやっとわかった。僕の意識の底には、映画監督・加藤泰と美術監督・井川徳道が生み出した加藤泰映画の中の数々の野面セットの情景が深く深く沈殿していたのである。「塔影三十六景」ページのタワー画像は「緋牡丹博徒・お竜参上」の凌雲閣の追想であり、「天空群像」ページで夕雲の画像を撮りたがるのは「沓掛時次郎・遊侠一匹」の鰯雲の土手道への憧憬であり、鴨川に架かる正面大橋や七条大橋の画像は「車夫遊侠伝・喧嘩辰」の大阪・渡辺橋や「明治侠客伝・三代目襲名」の中之島蛸の松への回帰ではなかったか。そのいずれもが井川徳道の手になる野面セットである。むろん、僕の撮る画像のすべてがそれに収斂するという意味ではない。だがこの画像をながめるほどに、僕の意識の底にはけっして軽くはない内的比重でもって井川徳道の映画美術世界が息づいているのではないかという気がしてくる…。 
「校庭映画会」
2006年6月13日撮影

 沈む夕日を映写レンズの光に見立てて今夜も映画の話をしよう。
 僕が子供のころ、小学校の校庭や児童公園を会場にしてときどき映画会が催されることがあった。公園や校庭にスクリーンを張って夜空の下で上映するのである。したがって公園の場合、お金を払わなくても左右逆映しの映画が鑑賞できたはずである。主催者が誰でどのように運営されていたのかは子供であった僕が知るはずもない。テレビが一般家庭にはまだじゅうぶんに普及していなかった時代のことだから、けっこう賑わっていた。上映されていた作品を二本だけおぼえている。高田浩吉主演の松竹映画『荒海にいどむ男一匹 紀の国屋文左衛門』(1959年)と長谷川一夫主演の大映映画『銭形平次捕物控 まだら蛇』(1956年)である。
 ミカン船映画でおぼえているのはクライマックスの嵐の航海よりも、なにかの罪で投獄されて前科者となってしまった高田浩吉に対して、周囲の船乗りたちが「俺も前科者だ!」と口々に言って腕をまくり上げ、罪人の印の刺青を見せて連帯感を示すシーンである。小さな子供のくせにこういうシチュエーションに胸を熱くしていたのだから、青年になって東映ヤクザ映画にシンパシーを示す素地はあったわけである(ちなみにS・キューブリック監督の『スパルタカス』(1960年)のラスト近くにも「俺がスパルタカスだ!」とみんなが名乗りをあげるシーンがあったことを思い出した)。
 伊藤大輔脚本の銭形平次には美空ひばりが出演していた。大がかりなニセ小判造りの組織を平次が追う。その秘密工場がなんととある橋のたもとの地下にあって、橋のどこかから下をのぞきこむと地底の世界が見えるのである。時代劇であるにもかかわらず「高瀬川・冬」→「電話ボックスの怪」に書いたギャング団の秘密のアジトと同種の大胆な設定で、これまた僕の泣きどころを突いている。
 校庭や公園の映画会に行くと、大人や子供に混じって同級生たちも来ている。どこか背徳を共有している気分である。小学校で遠足に行った日の夜、たまたま映画会が校庭で催されたことがあった。遠足から学校に戻って解散する直前、僕たちの学年の先生が言った。「今日はみんな疲れているから映画なんかには来ないで早く寝ること。」
 ためらいながらも僕は出かけた。先生はもう帰宅して学校にはいないはずである。見つかることはない。そうタカをくくっていた。
 ところがなんたること。映画の上映前にウロウロしていたら何か視線を感じる。その夜たまたま宿直であったらしい先生の目が校庭の暗がりのむこうからしっかりと僕を見ていたのである。
「人がゆく、雲もゆく」
2005年8月7日撮影

 真夏の三条大橋を人がゆく。雲もゆく。
 時刻は夕方5時を過ぎているのに橋の上にはとても夕陽とはいえないような太陽光線が射している。日蔭にあたる橋脚部分は黒く沈んで、橋上の人影と強烈なコントラストをなしている。
 行きかう橋上の人群れをながめていると、人と人との係わりが不思議に思えてくる。長いこと自営業をしている。お得意先は固定客で、小さめの会社ということになる。だから社員ばかりでなく社長や専務もやってくる。長年にわたるお得意先の常盤印刷紙工(株)社長・井上重樹氏と仕事の話をしていたら、彼は僕が昔ずいぶんとお世話になった東映の中島貞夫監督の長男・純太氏と幼なじみであることが判明した。
 なんたる偶然であろう。僕が中島家によく通った頃の純太君はまだ三輪車に乗った子供であった。それが今では製薬会社の営業マンになり、井上社長とたまにゴルフをする仲であるという。あの童顔で(子供だったのだ)ゴルフをねえ…と想像していたら、社長曰く「純太の顔は昔とちっとも変わってないよ。」やっぱりあの顔でゴルフをしていたのか。父上はまるでジャガイモみたいだけど、純太君は可愛い男の子だった。一度くらいは現在の顔を見てみたい気もする。
 でも僕はゴルフなんてやらない。
「波紋」
2005年6月24日撮影

 鴨川や高瀬川で撮影をしていると、通りがかりの人に声をかけられることもある。年配の方が多いようである。
 「どっか行かはるんですか?」(仕事の昼休みです。)
 「写真やったらもっと北の方で撮らはったらよろしいのに。」(小綺麗に整備されているのが気にくわん。昼休みはまずどこかで何か食べんならん。僕は自分の生まれたこのへんを撮りたいの。人のくらしが高瀬川や鴨川の情景と溶け合ってるのはこのへんだけなのを知ってる?)
 「京都タワーを撮ったはるんですか。私も撮ってみよかと思うけど、ビルが邪魔とちがいます?」 (多少のビル影くらいどん欲に取り込んでアクセントにしてみては?)
 ふとした気まぐれから、人にこのサイトのURLを教えることもある。関心のあるなしはリアクションでわかる。関心のある人は少数である。理解の度合いは返ってきた感想でわかる。文字は読めても文章は読めないみなさんの多さに気づいて絶望する。なかなか波紋のようには広がってゆかないどころかこちらが煩悶する。
「明日は晴れるさ」
2005年6月11日撮影

 正面大橋に雨が降る。久方ぶりの雨である。ただし、たいした雨ではないから濡れた路面しか写ってはいない。大阪管区気象台はこの日近畿地方が梅雨入りしたと思われると発表した。昨年よりも平年よりも何日か遅いのだろう。それでいてたぶん明日は晴れるのだろう。
 構想中。
「マンハッタン」
2004年8月25日撮影

 「マンハッタン」はウディ・アレン(監督)、ゴードン・ウィリス(撮影)コンビの秀作である。ニューヨークの街をスコープサイズで切り取るゴードン・ウィリスのセンスに魅了される。僕はもはやニューヨークへなど行きたくない。この作品のモノクロ映像でじゅうぶんに堪能したからである。
 僕は京都スカラ座の封切りで見た。日曜日の午後というのに観客はまばらで、上映中の館内にはガーシュインの音楽とアメリカ人グループの笑い声だけがひびいていた。それにしてもアメリカ人たちはよく笑った。彼らはウディ・アレンが例の口調で何かセリフをいうたびに笑うのである。字幕を読んでいる僕だとそうはいかない。せいぜい暗闇の中でクスリと、あるいはニヤリとする程度である。アメリカ人にしかわからないニュアンスというものがあるのだろう。
 ウディ・アレンの映画を見続けて感じるのは、「アニー・ホール」においてゴードン・ウィリスと出会ったことが映画作家としての彼にいかに大きな実りをもたらしたかということである。周知のとおり、ゴードン・ウィリスは「ゴッドファーザー」三部作の撮影監督である。写真でみる彼はいかにも頑固で気むずかしそうな顔つきをしている。撮影現場ではあの顔でもってコッポラと相当にやり合ったという。同じようにウディ・アレンともやり合ったことだろう。やり合いながらウディ・アレンは映画作家として大きな飛躍を遂げたのである。「ブロードウエイのダニーローズ」「カメレオンマン」「カイロの紫のバラ」をみれば一目瞭然である。
 ゴードン・ウィリスと組むことによって飛躍を遂げたウディ・アレンは続く「ハンナとその姉妹」ではイタリア人のカルロ・ディ・パルマと組み、ウィリスとのコンビを解消する。のちにスケジュール上の理由を挙げているがそれは大人の口実である。ウィリスと組んでいては彼にアタマが上がらないからであろう、永久に。
「星を上げろ!」
2004年7月8日撮影

 僕が子供のころ、家にまだテレビはなかった。とりわけ貧しかったからというわけではない。テレビというものが一般家庭にはまだなく、娯楽といえばラジオか映画館という時代だったのである。当時のラジオは歌番組と連続ラジオドラマの全盛期だった。「お父さんはお人好し」「赤胴鈴之助」「神州天馬侠」「黒百合城の兄弟」などといったタイトルだけが今も心の沈殿物の底に残っている。
 そのなかに「星を上げろ!」というのがあった。これは映画の「警視庁物語」シリーズやテレビの「七人の刑事」のような…と言って伝わるかどうか知らないが、とにかく刑事もののラジオドラマだった…のではないだろうか。
 冒頭、鋭い男の声で「星を上げろ!」。続いて音楽。僕がおぼえているのはこれだけである。つまりタイトルアナウンス部分しか記憶にないのである。この声が心に残った。いつまでも残った。この声が心の中で甦るとき、今でも胸がキュッと締めつけられる。僕の心の都会の暗い夜空に星がパッと上がるのである。それにしても「星を上げろ!」とはなんたる言い回しであろうか。汚濁によどんだ現代社会をはいずり回る刑事たちのラジオドラマに「星を上げろ!」などという奇妙に昇華されたタイトルを付するとは、なんという逆説的ロマンティシズム、なんという文学的シンボリズムであろうか。こんなタイトルを考えたやつはただものではあるまい。僕は長いことそう思いこんでいた。子供のころからずっと思いこんでいた。だけど大人になる途中で、ある日、気がついた。 
 あれは「ホシ(犯人)を挙げろ!」だったのである。
「トライアングル」
2004年6月19日撮影

 この写真、どこか撮り手の技巧らしきものが透けて見えるような気がする。もう少しナチュラルなものの方が僕自身の好みには合う。とはいえ技巧など駆使したはずもなく、僕のいつもの写真と同じようにこれも偶然の産物にすぎないのだが。
 場所は五条大橋のすぐ南。右岸の水際ギリギリから左岸側をズーム気味にとらえている。左岸は遊歩道として整備がなされているが、右岸はといえば上の写真(この写真はここから撮ったもの)でおわかりのように、七条〜五条間が未整備のままである。おかげで正面大橋脇の古い石段などが手つかずのまま残されている。だがここへたどり着くまでには時間がかかる。五条大橋北の石段を降りて五条大橋をくぐれば近いのだが、橋下に鉄柵が設けられていて通れない。やむなく七条寄りの正面大橋脇の古い石段を降りて道なき道を10分ばかり歩くことになる。そこは未整備のため夏場など草が生え放題の伸び放題。途中からは極端に幅が狭い断崖絶壁的難所になっていて、身の軽いはずの僕でさえ草で足を滑らせて鴨川に落ちそうになったくらいである。たまに川に落ちるのもまた楽しいことだろうが、まず人は歩かない。やがて右岸も整備される日が来て、あの風雅なる古い石段も姿を消してしまうことになるのだろうか。
「ヒミツのぬけあな」
2004年6月19日撮影

 ヒミツのぬけあなは秘密でもなんでもない。高瀬川から鴨川に通じるただの放水路である。ここから穴に入って腰をかがめて進んでゆくとすぐに高瀬川に抜けることが出来る。ただし途中には棄てられた自転車の残骸などが転がっているからそれなりの注意は必要である。
 いつの時代にこのような放水路が造られたのかは例によって定かではない。僕は子供の頃からこのトンネルにただならぬ興味があった。高瀬川の側からこの抜け穴をながめ、この写真にある五条大橋上からもこの抜け穴をながめてはため息をついたものである。
 大人になって(とうの昔になっているにせよ)2003年の6月に仕事場を高瀬川沿いに移転し、毎日通勤してくる羽目になったことによって、ようやく積年の宿願を果たすことができた。僕は子供じみた行楽地やありきたりの観光地にはまるで興味を持たないが、この手の忘れられた遺蹟には弱いのである。
 とはいえ、大人になるとかえってやっかいなことがあるのに気づいた。この抜け穴の高瀬川サイド出口の真上は交番なのだ。高瀬川にノッソリ出てきたところを通行人に見つかり「きゃっ、チカン!」と通報されて大捕物となるのはいかに六道順逆の境を超えた僕といえど願い下げにしたい。さいわいあの交番内に警官がいるのを見たことがないのが救いである。これより突入してみることとする。
(続きは「高瀬川・春」→「2005年の世界」)。
「ラスベガス」
2004年6月3日撮影

 僕の好きなラスベガスは現実のラスベガスではなく映画のセットのラスベガスである。フランシス・コッポラ監督のオール・セット映画『ワン・フロム・ザ・ハート』の中のラスベガスである。青い幕が両側に開いてゆくと、月をバックに電飾風のメインタイトル。砂漠の俯瞰。マットペインティングで描かれた帯状の光点は砂漠の中の町ラスベガス。カジノのネオンサイン。メインストリートにある旅行社のショーウインドウ。ミニチュアの摩天楼の上には「FLY TO NEWYORK」の吊り下げPOP。キャメラがショーウインドウを突き抜けて店内に入ってゆくという導入部で僕はこの作品に魅せられていた。
 ストーリーはシンプル。同棲中の中年カップルが喧嘩をして家を飛び出し、不夜城の町で互いに浮気のまねごとをして翌朝ヨリを戻す。それだけでしかない。では何がこの映画を輝かせるのか。旅行社のウインドウの中の摩天楼は模型である。いささかくたびれかけた男・ハンクがたたずむ夜の郊外の廃車置き場のだだっ広いセットの背景は切り出しと描き割りである。二人の家の前の通りの彼方に見えるラスベガスの中心部は精巧なミニチュアである。レストランの楽屋裏に出現する南太平洋のボラボラ島は布幕に描かれた絵である。コッポラはこれをラスベガス・ロケで撮りはしないし、撮るわけがない。映画は想念で見るものである。
 この映画に寄せる僕の愛着に共感する人は多くはないだろう。今はなき四条大宮の京都コマゴールドで僕が見たとき、まばらなお客は明らかに退屈していたし、コッポラ自身もこの映画の致命的不入りによって莫大な負債を抱えたのだから。
「鴨川の歌が聞こえる」
2004年7月11日撮影

 つじあやのを至近距離から見たことがある。2004年7月6日。生まれて初めて体験したライブ会場においてである。
 開演時刻を10分ばかり過ぎ、熱いスポットライトを浴びて第一曲「ぎゅっと抱きしめて」が始まった。その歌いぶりは予想していたような軽やかなものではなく、どこか苦しげであった。何曲目かを歌い終えたあと、「帰ってくる場所があるっていうのはうれしいなぁって…」と静かに言ったところで彼女が嗚咽し、手渡されたタオルでもって顔面の涙をぬぐった。
 ここで当サイトの編集顧問である東京のN氏にご登場願おう。
 「かつて京大教授の会田雄次が自著の中で書いていた情景を想起しました。ビルマ戦線で敗戦をむかえ、アーロン捕虜収容所にいた京都連隊の一兵卒だった会田たちが、故国の食い物の話や季節の話に興じていたときの話です。そのとき、たまたま話題が大文字焼きにおよんだときに、談笑していた雰囲気が変わります。会田たちははげしく「京都」を意識することになり、たちまちあふれる涙にほおを濡らしたというのです。「京都」を意識することがないときに動かなかった感情が、「京都」ではげしく揺さぶられたのです。あやの嬢の独白を聞いていると、同じように彼女が「京都」という存在に心ならずもこみあげるものあったことがよくわかります。会田センセイも、そんな感情が突然やってきたことにびっくりしたようですよ。うーん、やっぱり重いんだね。」
 この写真はその数日後の土曜日の午後、丸太町橋の北の河原で催された秘密ライブの情景。通りがかりにデジカメを取り出して構えたらスタッフに怒られてしまったが、こういうどこかの町内会の集まりまがいの催しこそ彼女にはふさわしい。彼女の歌声は京都の鴨川を流れる水の歌であるのだから。

2008年2月追記。
 いまは違うようである。
 現在のつじあやのの歌からは鴨川の水の音は聞こえない。
「初夏の鴨川に遊ぶ」
2004年6月4日撮影

 釣り人がいて、女子高生たちがいて、男子高生たちがいる。五条大橋の上から南を眺め、むこうに正面大橋が見えるこの写真がなぜか好きである。夏の鴨川には「遊び」がよく似合うのである。
 とはいいながらも僕自身鴨川で遊んだ記憶はない。小学校時代、鴨川で遊ぶことはたぶん禁止されていたのではないかと思う。二十年以上も前だろうか、東京から用事でやって来た女性が、四条通の南座脇を堂々と通過してゆく京阪電車を見て「こんな都会の繁華街を電車が堂々と走ってるなんてスゴイ」と感嘆したことが思い出される。そう言われてみれば東京の繁華街では電車は全部高架を走っている。渋谷など、地下鉄まで高架上を走っている。その方がゴジラには掴みやすいからだろうか。
 だが僕は鴨川の方がもっとスゴイと思う。なぜならば、ご覧のように足を踏み入れて、じかに水とふれあうことのできるような遊びの場としての川が、市街のど真ん中を貫いて流れている都会は京都のほかにないのではあるまいか。もちろん地形的な要因が絶対的に大きいとはいえ、それを代々にわたり延々と受け継いできた優雅な遊び心とでもいうべきものが京都の文化的風土なのかもしれないと思うのである。そしてこのことは変わらないだろう。市電が廃止され、クルマが横行し、周辺にJR京都駅をその代表格とする恥ずかしいビル群がいかに林立しようとも、平安の時代から受け継がれてきた遊び心のかようグランドデザインは変えようがないのではないだろうか。
 僕の子供時代からみても現在の京都はたしかに変わったけれど、それでも変わらないものがあることを初夏の鴨川での遊びに見ることができると思う。



inserted by FC2 system