鴨川・



「元禄桜」
2015年1月2日撮影

 1月1日に雪が降って積もり、1月2日から1月3日の朝方にかけても雪が降って積もった。
 1月3日の朝は寒くて外へ出そびれたのでこれは1月2日の朝の画像である。
 前回は雪の今戸橋だった正面大橋だが、今回はこれを両国橋に見立てることにしよう。
 三波春夫の長編歌謡浪曲「元禄名槍譜 俵星玄蕃」は、たとえばジャズのスタンダードナンバーにも匹敵すべき名曲である。あるいはまた
 (未完)






「雪の今戸橋」
2012年2月18日撮影

 そういえば僕は今戸橋へ行ったことがある。加藤泰監督の東映京都撮影所作品「緋牡丹博徒・お竜参上」(1970年)に二度登場するあの今戸橋、井川徳道美術監督による様式的でシンプルな名セットの今戸橋である。
 あれはいつのことだったろう。1970年代の半ば、正月の一日か二日の午後だった。北冬書房・代表のT氏と浅草の興行街を歩いたのち、今戸橋まで連れてゆかれたのである。今戸橋にはクルマが走っていた。「緋牡丹博徒・お竜参上」の明治ではないのだからあたりまえである。にもかかわらず、あの頃と同じように今戸橋の右手彼方には凌雲閣をのぞむことができたのが嬉しかった。しかしこれでは現実と映画がごっちゃになっている。凌雲閣(浅草十二階)は関東大震災で被害を受けて解体されている。だからあれはその後に建てられた仁丹塔である。いや仁丹塔も戦争中に解体されているから、あれは敗戦後に建てられた再現版の仁丹塔であったことになる。だからどうした。現実の今戸橋の向こうに凌雲閣らしき塔が見えることが大事なのであって、もし背後に塔が見えなければ今戸橋自体にさほどの意味はない。重要なのは「緋牡丹博徒・お竜参上」の世界を現実が模倣していることなのであって、その逆ではない。言うことがムチャクチャになってきた。
 しかしそれほどに「緋牡丹博徒・お竜参上」の映画的構成はすばらしいと僕は思う。ロケといえばさほど重要でもないワンシーンのみ、あとは撮影所内のオープンセットとステージの中に建て込まれたセットのみという人工美。オープンやステージに作られた浅草六区の興行街や淡島天神の背後には、つねに凌雲閣(セットの規模によって、何メートルもあるような大きなミニチュアや、立体切り出しなどが作られて使い分けられている)を見せておいて、そこでのクライマックスへ向かってドラマが収斂してゆくという、撮影所のプロたちにしかできない作家性を発揮する。 現にこの作品で加藤泰監督は京都市民映画祭・監督賞を受賞し、井川徳道美術監督は日本映画技術賞・美術部門を受賞している。さらに井川さんによれば赤塚滋キャメラマンも京都市民映画祭・撮影賞を受賞しているはずである。
 現実の今戸橋は消滅してしまった。今戸橋が架かっていた山谷堀は暗渠となって公園と道路ができ、今戸橋のなごりは橋柱のみであるという。
 今戸橋跡を再訪することもないまま、あれから四十年が経過したことになる。
 (2014年5月6日更新)
 

「県人客消える」
2010年1月6日撮影

 11月のなかばに、あることから朝日新聞京都総局の北垣博美記者の面識を得た。自転車事故によるという両松葉杖姿で多田製張所までわざわざ足を運んで来てくださった北垣記者は、僕のイメージする知性と良識の朝日新聞文化面担当記者をそのまま体現したようなおだやかな人柄であった。小さい子供の頃から朝日新聞を読んで育ったからでもないだろうが僕は朝日新聞京都総局に足を向けては寝られない。30年くらい前に二度三度と僕の絡んだ事柄をこちらが驚くほど大きく紙面を割いてご紹介いただくという幸運があり、前回の24年前(!)には今と同じ場所にある当時の「京都支局」まで事後のご挨拶にうかがったこともある。不思議な相性の良さとしか思いようがないまま今に至っているのである。
 北垣氏が帰られたあと、ふと思い出したのは僕が中学生だった頃、四国の新聞に記事が載った親戚のことである。見出しを今もおぼえている。「県人客消える」。徳島から本州行きの船の乗客が航海中に忽然と姿を消したという、本格ミステリばりの事件である。徳島県の別の親戚が送ってきたその新聞の切り抜きには顔写真はなかったが、僕が小さな子供の頃に父親に連れられ、徳島市内にあった家を訪ねた親戚であることはすぐにわかった。僕はそのときのその家の内部の匂いを強く記憶している。大きくはない記事は事実を淡々と報じながらも、どこか記者自身も首をかしげているようなニュアンスが感じられた。ところが現実の事件は本格ミステリふうには展開しなかった。消えた船客がそれからしばらくしてうちに姿を現し、長く滞在し、のちには妻子を京都へ呼び寄せたからである。彼と家族は多田製張所の元の仕事場のせまい二階にしばらく住んでいたが、僕が高校生になる頃には家族ともども四国の別の県へ移って新しい仕事に就き、僕と僕の父親はのちに彼の運転するクルマで雪の舞う屋島壇ノ浦を見おろすドライブウエイを走った記憶がある。その後一家はふたたび徳島県に戻ったらしいが、それから数年のあいだに妻子と別れ、離婚後も妻子のほうとは手紙等での行き来のあった僕の父親とも連絡が途絶えたようである。さらに数年して彼はこの世の人ではなくなったようであったが、四国に限らず親戚の話を父親とはしない間柄であった僕はあの時の事件の真相を知らない。
 40年以上も前に起きた船上の失踪事件。僕は当時の彼の年齢をとうに超えてしまっていることに気づく。
「山中貞雄のように」
2008年12月2日撮影

 以前「大気と町の底」ページ「京都の夏が終わる」に登場していただいた三村晴彦監督の訃報を知ったのは2008年8月5日のことである。前の年の初冬から三村氏にはそれとなく予告していた僕の結婚が実現したことを知らせる通知を7月中旬に送ったところ、「よかった、よかった。」という返信をいただいた。だがそれに続いて「病気で入院中です。これから手術です。きっと回復します。」という意味の文章がいつもながらの筆跡でしたためられており、いつごろご自宅にお電話すればよいのかそのタイミングを計っているうちに新聞報道を見逃してしまい、8月5日夜に三村久美子夫人にお見舞いの電話をさしあげて「多田さん。三村は昨日亡くなりました」と告げられたのである。
 三村氏の茅ヶ崎のご自宅をはじめて訪ねたのは1970年代なかば頃のことであったろうか。以後1983年の「天城越え」での映画監督デビューを経て、三村氏は30年以上の長きにわたり交流を続けてくださったことになる。とはいえ中断期間も長い。「天城越え」の撮影時には松竹大船撮影所内のオープンセット撮影や伊豆・湯が島のロケ現場にまで駆けつけたものの、「彩り河」以後の映画作品では撮影現場を訪ねることもなく、三村氏がテレビ映画の仕事にシフトしたころから長い中断期間に入った。東京を拠点としていた三村氏が京都の撮影所へ仕事に来るようになったのは、1994年の「八丁堀捕物ばなし」(役所広司・主演)からであったろうか。以後三村氏はほぼ毎年、東京での仕事をこなしつつ、映像京都か松竹京都映画のテレビ映画を撮りに京都へ来るようになった。時おり「今京都で仕事です」という電話が深夜にあり、それでも僕は撮影所へ行かなかった。そのあたりの事情についてはいつか別の機会を得たら書くことがあるかもしれない。僕が行くようになったのは2002年の映像京都「盤嶽の一生」(役所広司・主演)からである。以後は三村氏が京都へやってくるとかならず「三村です。今ロケハンに来ています。一度茅ヶ崎へ帰りますが、来週から松竹京都映画で撮影です。スケジュール表を送りますから、時間があればぜひ撮影所へいらっしゃい」という電話がかかるようになり、僕が撮影所のステージやオープンセットでの夜間撮影にかけつけるということを繰り返してきた。だんだんエスカレートしてきて僕の親戚の母娘を奈良から呼び出して撮影見学をさせたり、得意先の社長夫人とその子供たちを撮影所に連れて行ったこともある。それでも三村監督は嫌な顔ひとつせず相手をしてくださった。映画の仕事からテレビの仕事への転向を余儀なくされた三村氏であったが、三村氏はある時僕にこう言ったことがある。「多田サンは「百萬両の壺」は見てる? あれはほんとうに良い。ボクはテレビ映画をあの精神で作っています。加藤泰の叔父さんだった山中貞雄でね…」
 ここ数年僕が観察していると酒量もかなり減り、矢田行男撮影監督と宿舎近くの洋食の店で夜の食事がてら多少飲む程度であったが、2008年8月の下旬、「敵は本能寺にあり 信長の棺・完結編」の撮影もそろそろ終盤という頃、撮影所に何度目かの夜の訪問をしたら監督がひとりでスタッフルームのソファに横になっていた。撮影中でしょう?現場に行かなくてよいのですか?と訊ねると、「火矢が飛んだり柱に突き刺さったりするカットだから助監督がいればいいんだ」という。たしかに今回はもっと重要なシーンでもカット割り等の撮影コンテをチーフ助監督氏に任せていたことがあった。監督は横になったままである。しばらくすると製作部とおぼしき現場スタッフが監督を呼びにきた。指示を仰ぎたいから現場に来てほしいという。監督はどこか大儀そうに指示を出しただけでそれでも動こうとしなかった。製作部とおぼしきスタッフはいささか困惑の態でルームを出て行き、監督は目を閉じたままスタッフたちの帰りを待った。今にして思うに監督はあの時動けなかったのではあるまいか。後々の病状のことを少しは知ることのできた今となってはそう思われてならぬ。
 最後の作品となった「信長の棺」と「敵は本能寺にあり」の二部作では、それぞれが二時間枠の歴史ミステリーという素材の性格上、ストーリー展開とセリフによるその説明に重きを置かざるを得ず、山中貞雄的センスは発露されにくかった。だがそれまでの、ことに京都の撮影所で作った一時間枠のテレビ時代劇映画では、山中貞雄の「丹下左膳余話・百萬両の壺」の精神という密かな目標を心のうちに抱いて、ユーモアも人情もアクションもある小品を作り続けてある種の高みにまで達し得ていたのではなかったかと僕は思う。
「吉良常」 「吉良常」
2008年3月6日撮影

 吉川潮著「芝居の神様 島田正吾・新国劇一代」(2007年12月20日 新潮社刊)のなかに不可解な記述がある。
 僕はマキノ雅弘監督の「日本侠客伝 雷門の決斗」(1966年 東映京都撮影所作品)で島田正吾が演じた老残の元やくざ(藤純子の父親役)が好きで、おなじ新国劇の辰巳柳太郎よりも島田正吾のほうがずっと好きで、こんなオジサンが身近な知り合いの中にいてくれたらどんなにかうれしかったろうにな…というアコガレまじりのあわいはかない願望からこの書物を購入した。 
 ところが、この書物には236ページから237ページにかけて不可解な記述がある。それは「新国劇の当たり狂言『人生劇場』を名匠、内田吐夢監督が映画化することになり、島田と辰巳に出演依頼が来た。鶴田が飛車角で、辰巳には吉良常を、という依頼である。映画とは言え、島田の持ち役を辰巳が演じることに劇団は難色を示したが、内田監督の要望と言われると断り切れない。 
 島田は辰巳がどんな吉良常を演じるか見たかったので、自分は瓢吉の父、青成瓢太郎の役に回った。」という部分であり、「 『人生劇場 飛車角と吉良常』の後、島田は大映の戦争映画『あゝ海軍』など四本の映画に出演し、次に出演依頼があったのは、日米合作の超大作、『トラ・トラ・トラ!』である。」という部分である。
 だいたい内田吐夢監督の映画『人生劇場 飛車角と吉良常』で青成瓢太郎を演じたのは中村竹弥である。同書の記述は事実誤認である。いかなる事情からかような単純ミスが生じたのか僕は知らない。だがこのこととは直接の係わりがない感慨が僕の心にはある。
 加藤泰監督が1972年に松竹大船撮影所で『人生劇場 青春・愛欲・残侠篇』』という大作映画を作った際、吉良常を演じたのは公開時点で37歳の田宮二郎であった。僕は松竹大船撮影所においてこの映画の撮影現場を一日だけだが見ている。飛車角・吉良常・宮川の三人がでか虎の家に決死の殴り込みをかける雨中の乱闘シーンであった。あるところで田宮二郎の吉良常の若さについて問われた加藤泰が「それは、吉良常を持ち役にしてきた俳優さんたちがだんだん歳をとってこられたからでしょうね。吉良常というのは本当はもっと若いんです。」と答えていたことがある。なるほどそうか、新国劇では吉良常が島田正吾の持ち役のひとつであったのか。加藤泰のあの映画の主役は瓢吉でも飛車角でもなく田宮二郎が演じる吉良常だと僕は思っているが、それはそれとして、あの島田正吾の吉良常というのは一度見てみたかったとつよく思い、残念に思うのである。
「靄にかすむ」
2008年1月9日撮影

 はじめて東映京都撮影所の門をくぐったのは、小学校6年生のときである。小学校からバスに乗り込んで、午前中は大阪の雪印乳業の工場、朝日新聞の大阪本社などを見学したあと、午後には京都へもどり、社会見学の最後が右京区太秦にある東映京都撮影所であった。僕は太秦に親戚の家があったため、東映京撮のオープンセットに夜遅くまで煌々とライトが灯っているのは子どもの頃から見ていたが、撮影所の内部へ足を踏み入れたのはこれが初めてであった。
 所内に駐車したバスを降り、係の男性に案内されてゾロゾロとステージへむかう。薄暗い中にはいると、奥の方に旅籠の二階らしきセットが地面から建てられ、いくつもの強烈なライトで照らされていた。旅籠のバックには空が描かれ、美空ひばりが二階の障子窓を開けはなして物思いにふけるというシーンを撮影していたのである。あの時あの瞬間、国定忠治の娘を演じて虚空を見つめていた美空ひばりの目には何が映っていたのだろう。映画スターでもあった大歌手がセットの障子窓から身を乗り出すようにして見ていたのは、鴨川の水の流れの向こうで靄にかすむ京都タワーではすくなくともなかったはずである。
 気がつくと僕の横にも髷をつけた町人姿の男がいて撮影をながめている。共演の水原弘であった。だがこの二人にさほど興味はない。ステージを出たところで菅貫太郎と遭遇。この年に撮影される工藤栄一監督の『十三人の刺客』の酷薄で残忍な殿様役がやがて代表作となる、偏執的で粘液質な悪役を得意とした俳優である。驚いたことには別人のような笑顔で小学生の一団と握手をしてくれる。そのときのスナップ写真をのちに見たことがあって僕も写っていたが、僕の手元にはない。それよりも僕はこの映画『夜霧の上州路』(内出好吉監督)を封切りの映画館で見ることができたことが重要であった。小学生ながら、いや小学生にして、撮影現場を見て、それが一本の映画の中でどのような位置や比重を占めることになるのかを実体験できたのである。だがいつものように東映の封切館に連れて行ってくれた親にそれは言わなかった。そのことの重要性を親が理解してくれるとは思えなかったし、うまく説明もできないと思った。
 以来、僕は長いこと京都の小学生は社会見学の一環として映画の撮影所へ行くこともあるのだというふうに思い込んでいたが、東映京都撮影所で50年ちかいキャリアを積み重ねてきた井川徳道美術監督は、小学生の集団の見学などほとんどなかったという。どうやら僕の在校当時の小学校の誰かと撮影所の誰かのあいだに何らかのコネクションがあったとしか考えようがない。
 僕がふたたび東映京都撮影所の門をくぐるようになるのはそれから約9年後。深作欣二監督の『仁義なき戦い』をはじめ、以後数多くの映画のセット撮影現場をステージでながめ、完成した作品を劇場で見ることになる。
「靄にかすむ」
「流転」 「流転」
2007年1月20日撮影 
     
 高瀬川・冬ページに登場する「パラレル」男のその後の消息が聞こえてきた。極細から極太へと使用前使用後モデルなみの変身を遂げた男のその後である。彼はその後紙工品業界から足を洗い、知人に誘われて新たな事業を興したという。ところがその知人が殺害されてしまい、彼自身も姿をくらまし今はひそかに沖縄で生き延びているらしい。なんたる流転の人生か。
 極細時代の彼が最初にいた得意先の印刷会社には、互いの配偶者同士が姉妹で、彼の義兄にあたる男も働いていた。義兄はハンサムで魅力的な男であった。ところがある日顔中をボコボコに腫らして現れたのには驚いた。前夜繁華街あたりでかなりの大立ち回りを演じたのであろう。あんなのを実際に見たのは初めてである。その後姿を見なくなったと思ったらいつの間にか社長の長女とも離婚をして会社も辞め、それ以後は何をしていたのか知らないが、今はタクシーに乗っているという。
 彼らは生きている。だが死体で見つかった得意先の営業マンもいた。ただし殺人事件ではない。ある朝出社してこないため上司がアパートに立ち寄ったところ布団の中で突然死していたのである。しばしば仕事の依頼をしてくれていた人物であった。
 長年にわたって同じ仕事を続けているが、十年二十年という長いスパンの中でみると懇意にしてくれる得意先の顔ぶれもいつしか入れ替わっていることに気づく。日常の流れの中にいると日常それ自体の変移をなかなか自覚することができないのである。ジャック・フィニィもこういう感慨を抱いたはずである。そしてそれを転倒させることで「こわい」という短編小説を構想したのではないかという気がする。
「9時から7時までの男」
2007年1月20日撮影

 毎日の通勤には250CCバイクかJR山陰線のどちらかを利用することにしていて、朝バイクで出勤してもその日の気分しだいでJRで帰宅することもある。先日もそうだった。午後7時すこし前に京都駅の山陰線ホームまでたどり着いたところ、発車間際のやつと14分後に発車予定の二本の電車が待っていた。満員の先発を避け、席の空いている後発電車に乗り込む。ドア脇にある狭い二人掛けに腰を下ろし、HPBの一冊を取り出す。好きな海外作家の小説世界に没入して満ち足りた時間を過ごそうという作戦の開始である。
 と、数分後、男の丁重な声がした。「すみません。こちらの席に座らせてもらってもよろしいですか。」礼儀をわきまえた乗客である。緊張してしまいそうになる。僕は顔も上げずに黙ってうなずき、すこしだけ身を端に寄せる。落ちついた声とカバンと黒っぽいスーツ姿から察するに50代の紳士であろう。しばらくの後、男の携帯電話が鳴る。「はい、申しわけありません。さきほど連絡が入りました。どうもトラブルに巻き込まれたようです。いや、警察とはちがうようで。兄貴申し訳ない…というので、こっちは昼からあれこれ段取りをしてるのにあかんやないか、と…。」落ちついた口調でひとしきり弁明し、予定の変更によって生じた非礼を詫びていたが、今日はもう帰宅する旨を相手に伝えて通話を終え、今度は黙々とメールを打ち始めた。とたんに僕の耳も通常の大きさに戻る。もしも通話中の彼が隣の僕を見たとしたら、僕の顔に奇妙な表情が浮かんでいるのに気づいたことだろう。
 僕が読んでいた本は、S・エリンの『9時から5時までの男』だったからである。
「9時から7時までの男」
「ユリカモメに明日はない」 「ユリカモメに明日はない」
2007年1月5日撮影

 仕事に来ている日はほぼ毎日のように鴨川を見ている。水の少ないときは撮影のため長靴で川に入ることがあるが、たいていは鴨川にかかる正面大橋を自転車で渡る。用事があって通りかかる日もないではないが、それ以外の日は鴨川の水の流れに目をやりと比叡山を眺めるためである。心を動かされるものがあれば写真に撮る。 
 たぶん一昨年の3月のことである。春めいてきてそろそろ旅立とうかというユリカモメの群れを猛禽類が襲撃しているのを見かけた。鴨川に浮かぶユリカモメの一団を、上空からキリモミ状態で急降下してきた猛禽類が攪乱していたのである。集団による攻撃は執拗で、ユリカモメたちは半パニック状態で逃げまどっているように見えた。
 ユリカモメたちは毎年11月中旬から下旬頃にかけて鴨川にも渡ってくる。温暖な日本で冬を越して翌年3月初旬頃にはカムチャツカ方面へむけて旅立ってゆく。昼時の鴨川ではユリカモメにパンくずなどを与えている人をよく見かける。僕もむかし正面大橋上から空中のユリカモメにむかって麩を与えた記憶がある。
 昨年は12月から襲撃を目にした。それも連日のように。だが僕の見たかぎりでは攪乱されているだけで、また襲撃の対象はあくまでもユリカモメであって、猛禽類はカラスやハトには関心がないらしいところからすると、たんなるテリトリー争いのようにみえるのである。ヒトのあたえる餌の味を覚えたらしい猛禽類がこのような町中にまで出没してくるようでは、鴨川に飛来してくるユリカモメに心安らぐ明日はないように思える。
「天上より洩れきたる光よ」    
2005年11月24日撮影

 このような情景をまのあたりにすると、ゴタクの得意な作家であるカート・ヴォネガットいうところの「天にいる誰かさん」はやはり実在するのではないかと一瞬だけ疑いたくなる。むろんいるわけがない。
 僕はじつのところ影山徹の装幀画を連想した。国書刊行会刊の世界探偵小説全集38グラディス・ミッチェル『ソルトマーシュの殺人』の表紙画である。ただしこの画像とは構図が左右対称である。向かって右上の角に懐中電灯を持った男の右手があり、左下に向かって斜めにのびたその黄色い光の帯がイギリス田園地方にある村の教会の尖塔を照らし出しているという、ミステリアスで超現実的な絵である。
 僕はいわゆる本格ミステリ好きではない。クイーンの『エジプト十字架の謎』とカーの『魔女の隠れ家』は中学生の時に少年少女向けにリライトされたものを読んではいるが、大人になってからはクイーンもカーも理解することができない。折りにふれて何冊かにはチャレンジしてみたが、クリスティはあの顔からして肌に合わないから除外。クイーンには心惹かれるもののすべて中途で挫折した。とりわけドルリー・レーンのあのもったいぶりが鼻につく。カーは評価の高い『火刑法廷』を艱難辛苦のすえ読み終えたが、あまりの竜頭蛇尾に怒りをおぼえた。『緑のカプセルの謎』にいたっては、カーが犯人に設定した人物が犯人である必然性がどこにも見いだせず困惑した。これでは所詮手品のタネ明かしでしかない。誰にアリバイがあろうがなかろうが僕の知るところではないし、鍵穴を細工して完成した密室などそもそも密室であるはずがないのである。
 このけっこう幅の広いジャンルでの僕の好みは、なぜ異色作家と呼ばれるのかわからないスタンリイ・エリンと、ハードボイルド派に分類されるらしいロス・マクドナルドである。ただしロス・マクといえど菊池光訳には違和感をおぼえる。ディック・フランシスもロバート・B・パーカーも菊池光訳では読みたくない。大きな損をしているのだろうが仕方がない。ジョン・ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』もギャビン・ライアルの『深夜プラス1』も他の訳者で読みたかった。
 本格ミステリに分類される中ではパトリシア・モイーズの『死人はスキーをしない』を楽しく読み終えることができた。だが『EQMM』を創刊号から読んでいたという編集顧問のN氏は面白くないという。それを聞いて僕は同書をむしろ上質の観光風俗小説として愉しんでいたことに気づいた。『ソルトマーシュの殺人』『月が昇るとき』のグラディス・ミッチェルはどうだろう。ロス・マクドナルドとグラディス・ミッチェルにはじつは根底のところでひとつの隠れた共通項があるようだから、読んでみたらかなり僕に向いているかもしれない。
「天上より洩れきたる光よ」
「いつか海にそそぐ」
2005年2月1日撮影

 佐木隆三の小説『旅人たちの南十字星』には惹きつけられる。むしろこの作品の素材となった現実の事件のほうに関心がある。自社の社員に多額の保険金をかけて殺害した運送会社の社長と常務。二人は事件が発覚するや南米大陸に逃亡、現地警察との銃撃戦のすえに射殺されてしまうという事件である。
 この小説の第二章にイグアスの大瀑布の場面がある。孫娘を連れて遊びにきた70歳になる移民男性が、日本人らしき中年男性二人連れから声をかけられる。二人が彼の記憶に残ったのは、観光客を装いボート遊びをしているにもかかわらず場違いな印象を受けたからである。僕はこの局面での二人の逃亡犯の内心を思うとき、名状しがたいものが胸にこみ上げてくるのをおぼえる。極限状況に追い込まれたとき、人の生は燃焼して異様な光を放つ。僕自身の体験でいえば、サイフひとつ置き忘れただけで、押し寄せる不安と絶望でもって生が充実するのである。これを充実というかどうか、また二人が殺人犯であることはさておくとしても、僕の生活の場のすぐ近くを日々流れるこの川もやがてイグアスの滝へとつながっているように思われてならぬ。この水の流れが大瀑布となって此岸から彼岸へと落ちてゆくのが見えるような気がするのである。すくなくともこの僕の心の中では。 
「カモメが飛んだ日」 「カモメが飛んだ日」
2005年2月2日撮影

 昼休みや夕暮れどき、通りすがりに鴨川をながめていると、季節を問わず、また季節によって、いろいろな種類の鳥が棲息していることに気づく。堤防の遊歩道の植え込みにいるスズメやハトはもとより、水際にいるカモ、川の中程にいるアオサギやダイサギやコサギ。ペリカンに似た名も知らぬ種類の鳥を見かけることもある。秋の終わりにはユリカモメたちが飛来する。
 とある朝、友人で視力の優れた谷川純則氏から興奮ぎみの電話がかかってきた。「今正面大橋でカワセミを目撃しました。すぐ来てください」。僕は仕事の準備中だったから辞退したが、彼の鋭い観察眼によると、こんな街中にもかかわらずカワセミの定期飛行ルートがあるのだという。毎日ほぼ同じ時間帯にカワセミが正面大橋の下を飛行して、川岸の特定の木に止まりにやってくるのだという。彼の視力ならUFOも目撃していることだろう。
 七条大橋や正面大橋の上から、あるいは画像のような遊歩道から鴨川をのぞき込むと、水の中に無数の小魚がいるのが見える。水中のそこかしこで何かがキラキラ光ると思ったら、小魚たちが水中で身体を傾げたときの胴体のきらめきであった。野鳥たちが棲息しているわけである。
 正面大橋から鴨川を見下ろすと、大きなフナかコイが悠然と泳いでいるのを目にすることがよくある。正面大橋の下をくぐりゆっくりと上流へ移動してゆく大きな魚の背中は、映画化もされた日本のある小説を僕に思い出させる。僕は読んではいないけれど。
「冬の色A 青の寒樹」 「冬の色A 青の寒樹」
2005年2月13日撮影

 京都の町に育った人ならば誰もがそうであるように、僕も比叡山に上ったことがある。幼児の頃、比叡山で歩けなくなり、ヘルニアの手術をした。あまり良い記憶ではない。もかかわらず、京都の町から「鴨川の空」越しに見る比叡山のシルエットは美しい。七条大橋や正面大橋や五条大橋から比叡山をのぞむとき、全体がまるで一つの箱庭のように思われてくる。山があり、水が流れ、橋が架かり、家がある。朝方の黒い比叡山。昼間の緑の比叡山。夕暮れの蒼い比叡山。斜面が夕日の照り返しを受けてオレンジに染まる夕方もある。
 ここは五条大橋の西詰め。黒くつぶした眼前の五条通にはクルマの流れ。見事な寒樹の右側には鴨川がある。五条楽園の入り口を背後に立つ僕のすぐ左には高瀬川が流れ、右後方にはこのひとつ上のコマの寒樹があり、その根元には「此付近 源融河原院址」の石碑が立つ。
 この画像に収めた情景を見て思い浮かべるのは、僕が子供のころからある京都の仏檀店のキャッチコピーである。
 「朝(あした)に礼拝(らいはい)、夕べに感謝」
 ただし僕に信仰心はない。
「冬の色@ 赤の寒樹」 「冬の色@ 赤の寒樹」
2004年12月23日撮影

 東京にいる盆栽好きのN氏によると、このように冬に独特な樹姿を盆栽の世界では「寒樹」といって賞味するのだということである。
 これは鴨川の左岸、五条大橋のたもとから見た右岸のシルエット映像。この日は寒く空気の乾いた一日で、夕刻になると風が冷たく、夕雲が寒風に乗って上空を飛んだ。鴨川にかかる五条大橋を渡ってこの樹の生えている場所まで移動してみる。この画像の裏側にまわってみるとじつはこの木、このサイトのもうひとつのメインステージである高瀬川沿いにあって、その根っこには鎖が張られ、「此付近 源融河原院址」という石碑が立てられている。小さく、粗末な、古びた、さりげない、石碑としての身の程をわきまえた石碑だから、その気で探さないと見過ごしてしまうだろう。おまけに少し傾いている。それが歴史の重みを感じさせるのである。
 その画像は「高瀬川・冬」ページでご覧いただくとして、ここでふたたびN氏の弁。「まさしくここは平安京だったのだと実感しました。源融(みなもとのとおる)は『源氏物語』の光源氏のモデルといわれている人じゃなかったですかね。いや京都はスゴイのひとことにつきます。」
 僕などには馬の耳に念仏。
 念仏の唱和が消えないうちに、次の寒樹へと移ることにする。
「心はめいる、気はあせる A鴨川夢幻篇」 「心はめいる、気はあせる A鴨川夢幻篇」
2004年12月31日撮影 

 そう、結論はひとつ。
 大丸地下売り場を棄て、POLOも棄て、有次も断念して歳末の四条通をひたすら京阪四条駅へと急ぐ。
 急げ、急げ、急げ。
 京都市の中心部にもたまに雪が降ることはある。でもそれが日曜日であるとはかぎらない。日曜日に休めるとはかぎらない。かりに平日に降ったとして、それが僕の昼休みの時間であるとはかぎらない。昼休みが満足にとれるとはかぎらない。やはりこれは、いやこれぞ千載一遇のチャンスなのである。
 鴨川脇の地下を南北に走る京阪電車を五条駅で降りて地上へ出ると、そこは静寂の国。背後の五条通りをノロノロと進むクルマの喧噪も、タイヤチェーンの耳障りな音も、雪にかき消された音のない世界。シベリア寒気団が連れてきた沈黙の共和国。灰色の雪空にユリカモメの一群が舞い、遠くの正面大橋が夢幻世界への架け橋のように白く煙っている。
 僕は人気もない河原へ一目散。雪で滑る石段を駆け降りるや、CONTAXを取り出し、かじかむ手でひたすらシャッターを切る。
 切る。切る。切る。
 寒さなんか感じない。傘なんかいらない。誰に見られたってかまわない。大晦日の雪の川原には誰もいないのである。オートフォーカスが合うのを待つ間ももどかしく、水際ギリギリまで走り寄る。長靴を履いてこなかったことを後悔する。ふと間近の五条大橋を見上げる。通行人もいない五条大橋の上から、橋の下で撮影する僕をじっと見下ろしている僕がいたことに気づいて奇妙な気持になる。
 五条大橋下の白い川原を北へ南へと移動するうちに、雪の降り方がしだいにおとなしくなってきた。いかん。まだ鴨川にいるというのに雪が止みかけている。早く高瀬川へも行きたい。高瀬川の雪も撮りたい。心はあせる、気ははやる。だが、雪降りしきる白い鴨川を今年最後の日に撮れたことだけでも、ここはおおいに満足すべきである。あとはなりゆきまかせの雪まかせとしよう。
「心はめいる、気はあせる @早くしないと日もくれる篇」 「心はめいる、気はあせる @早くしないと日もくれる篇」
2004年12月31日撮影

 売上帳がたまっている。正確にいうと、多田製張所の2004年度の売上帳の記入が六ヶ月分も滞っている。
 今日は12月31日。なにゆえこのような破滅的壊滅的事態に陥ってしまったのか、もはや記憶すらない。とにもかくにも、たとえ猫の手を借りてでもこの正月休みのうちに約900件の仕事記録の打ち込みを済ませてしまわなければ、税理士事務所の若いS氏に対して「絶対にやっておきます」と宣言してしまった僕の顔が立たぬ。かくなる上はこの身朽ち果てようともやり遂げるしかないのである。
 このような心境で迎えた2004年の大晦日であった。だがあせってはならぬ。まずは食料品の買い出しが先決である。寝ぼけたアタマの中で綿密に計画を練る。でも、外は冷たそうな雨。
 行動計画表。
 @市バスで四条高倉まで出る。
 A大丸デパート地下売り場にて正月の食料品を調達する。
 B5階のPOLOショップに立ち寄り、柿木先生にご挨拶をする。
 C錦小路の有次で切れそうな包丁を買う(むろん調理用である)。
 D京阪電車で五条へ。五条大橋付近にて本年最後の撮影を敢行する。
 よし、これでいこう。
 西大路太子道で四条河原町方面行きの市バスを待つうちに、雨が目に見えて重く、降る速度は遅くなってきた。みぞれに変わりだしたようである。このぶんでは四条烏丸で買い物を済ませ、荷物を抱えて川端五条までたどり着く頃には雪に変わっているかもしれない。
 ところが…時は裏切り者。大丸デパート前に市バスが着いた時点で四条通りはすでに激しい雪であった。これは早く買い物を済ませなければならぬ。だが、はやる僕の心に現実は厳しく、デパート地下のレジは歳末の買い物客でどれも長蛇の列である。正月の食料を取るか、五条大橋の雪景色を撮るか…。このようなところで究極の決断を迫られるは誰が予想しようか。だがここで迷っている暇はない。結論はひとつなのである。 


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