町角に暮らす・ ふぞろいの遺跡




「点と線」
2011年1月4日撮影

 25年ぶりに上京区七本松通丸太町上るの大雄寺を訪れた。大雄寺には映画監督・山中貞雄の墓があり、甥である映画監督・加藤泰の墓がその背後にある。
 四半世紀ぶりにこの町なかのお寺に足を運ぶことになったきっかけは、昨秋、東京都の未知の女性・Sさんからいただいたメールである。山中貞雄の研究家としか僕には思えない深い考察をするSさんは、加藤泰の遺著となった「映画監督 山中貞雄」(キネマ旬報社刊)を読んで加藤泰にも興味をもち、それで「加藤泰の映画世界」(北冬書房刊)を読み、そこで知った僕の名前をインターネット検索にかけてこの「鴨川の空」にたどり着き、さらに多田製張所ページにジャンプし、なお数ヶ月迷ったのち社長直通メール経由で僕に連絡をくださったのであった。
 Sさんの用件は、僕が「加藤泰の映画世界」に書いた文章「最後の加藤泰監督」の内容に係わるものである。僕の文章の中に1985年5月、つまり亡くなる約1ヶ月前の加藤泰監督と二人で山中貞雄の墓の写真を撮りに大雄寺へゆくくだりがあり、その写真は「映画監督 山中貞雄」の中に使用されるはずであったが、加藤泰の死後出版された同書のどこにも見いだすことができなかったのである。写真がもし現在も僕の手もとにあれば見せてほしいというのがSさんの依頼である。
 ポジはない。だがネガは、移転前つまり元の多田製張所の廃墟の二階を丹念に捜索すれば出てくるかもしれない。それにしても撮りにくい墓だったという記憶がある。街なかのお寺の墓地であるがゆえに墓石の列の間隔が狭いのである。加藤さんに連れられて初めて行ったときもうまく撮影できず、もういちど僕一人で出かけて撮り直したものを郵送したのだが、それが配達されたのは加藤さんの入院後だったろうと思われる。
 あのとき、大雄寺で、「うちのお墓もここにあるんだ」と加藤さんは言っていた。そのときは「え、どれがそうなんですか?」と聞き返す心の余裕が僕になく、「そうですか」と僕は言っただけで、加藤さんも「これがそうなんだ」と指し示すことはしなかった。撮影を終えてから山中貞雄のお墓をバックに加藤さんの写真を一枚だけ撮らせてもらい、加藤さんも持参のカメラでなぜか僕の写真を撮ってくれた。山中貞雄のお墓の写真を撮る僕、撮り終わってお墓の前に立った僕の写真を一週間後に加藤さんから貰うことになる。。その写真をようやく探し出してながめてみると、25年前の僕の思いのほか愛らしい姿に驚く。「男の人にはめずらしい良いくせ毛」と評されたこともある髪の毛がフサフサと波打ち、いや、愛らしいのではなくじつのところ僕がどこか居心地の良くなさそうな、それでいてお行儀の良さそうなはにかみを浮かべているのは、いつもは僕が加藤さんの写真を撮る側で、加藤さんに僕の写真を撮ってもらうことなど想定外の出来事だったからだろう。
 25年ぶりに訪れた大雄寺で加藤さんのお墓を捜し、山中累代の墓と山中貞雄のお墓の隙間から、その二列西側ー斜め後方にある加藤さんのお墓が見えることに気づいて、僕は静かに心を震わせたのである。
(2011年3月21日更新)



「天窓と円窓」
2008年4月7日撮影。

 この天窓のある家はなんであろうか。また円窓のある家は…。
 子どものころ僕が暮らしていた格子戸のある二階建て木造家屋にも画像のような天窓があった。ただし一つだけであり、円窓の方とはおよそ縁遠い暮らしであった。
 自営業者であった僕の家では、二階のその一つしかない天窓の真下で家族全員が働いていた。真空管式の大きなラジオをつけて朝から夜遅く深夜まで際限のない手作業を続けていたのである。家族だけでは手が足りず伯母が通ってきていた時代、近くの中年女性が来ていた時代、若い女性が通ってきていた時代、さらに父親の郷里から中学を出たばかりの少年や、少女二人が住み込みで働きに来ていた時代もあった。家の中は一階も二階も紙が山と積まれ、人はその隙間で暮らしていたから、住み込みとはいえ近所の自転車屋さんの二階に間借りをしていたのである。少年の一人は逃亡・失踪・捜索劇の主役となったし、女性同士の諍いもあり、子どもだった僕はそのようなとき胸のつぶれる思いを味わったものである。
 時が移って家族も死に絶え、今は建て替えられたその仕事場に毎日僕は通い、二人の従業員とともに日々の納期に追われている。もちろんそこに円窓はなく、今は天窓もない。




「プカプカ」
2007年4月8日撮影

 坂の途中の曲がり角にあるこの煉瓦造りの建築物は東山税務署ではない。税務署は向かって左側の建物である。
 煉瓦造りの建築物は村井吉兵衛によるこの国最初のタバコ製造工場跡。当サイト編集顧問のN氏が京都へ来たときに見いだした音羽屋という餅屋があり、豆大福を買いにひさびさにやってきた僕が、音羽屋の北側にある坂道をふと見上げたところ、この建築物が目にとまったのである。
 近寄ってみると大きな建物である。以前はずっとテーラーになっていたようだが、今は折り鶴教室などに部分的に使用されているのかどうか、またテーラー自体も消滅したわけではないらしく、そういう看板も掛かっている。裏側は一泊二日から最長一年まで使用できるフレキシブルアパートとやらになっていて、外観に魅せられた僕はここへの転居を考え、電話で問い合わせをしてはみたのだが…。
 それにしても左側がこういう建築物でなく、もっと普通の町家が軒を連ねていたとしたら、この明治の洋風建築物ももっと美しく映えて写っただろうに。




「七条佛所跡」
「七条佛所跡」
2007年1月7日撮影

 京都の町なかには、平安や鎌倉や室町が顔をのぞかせている。それも有名な社寺仏閣や名所旧跡ではない。人の生活空間であるあちこちの通りに面してさりげなく顔をのぞかせている。
 むろん京都には江戸や明治もあるが、それくらいなら東京都内にだってまだ棲息しているだろう。平安時代を知らない東京には「源融河原院蹟」はないのである。
 画像の中の立て札によれば、ここは「七条佛所跡」。たしか僕の中学時代の古文の教師が住んでいた家のはずである。それはどうでもよい。平安時代に定朝という人がこの場所に佛所を構え、以後二十代以上にわたって続いたようである。当サイト編集顧問のN氏はここで作られた仏像の首から上のレプリカを所蔵しているという。何でも持っている人である。幸か不幸か、拝観の栄誉に浴したことはまだない。






「巨石のある路地」
2005年11月4日撮影

 なんと大きな石だろう。ひとつひとつの大きさが人の背丈、いやそれ以上もある。子供のころに一度連れて行かれたきりの大阪城の石垣を思い出す。
 これは方広寺の石垣。大阪冬の陣開戦の口実のひとつになったとされる「国家安康 君臣豊楽」の鐘が現存し、ずっと以前は誰でも撞くことができたものだが、今はどうだろう。画像の左側(北)の家並みは方広寺の隣家ということになる。方広寺の右側(南)には秀吉を祀った豊国神社があり、豊国神社に背中を向けて正面(西)やや左手を見下ろすと耳塚が見える。どうやらこのあたり一帯、豊臣政権との関連が深いようである。豊国神社は明治になって方広寺の大仏殿があったところに再建されたものだという。
 僕は秀吉も家康も豊臣も徳川も嫌いである。にもかかわらず霧隠才蔵が好きなのは仕方がない。真田幸村は豊臣・徳川のどちらかにつくしかないから豊臣についたまでであって、まして霧隠は真田幸村(城健三郎=若山富三郎でないと困る)個人に殉じているだけだから豊臣家の家臣などではない。あの映画(→天空群像ページへ)を特殊な思い入れでもって評価しているのは僕ひとりらしいことに気づいたが、なんでいまさら転向などできようか。
「みなとや食堂」 「みなとや食堂」
2006年5月20日撮影

 北大路通りに面し、北大路バスターミナル前の商店街に湊谷夢吉の生家はある。
 かつてこの広い通りを京都市電が堂々と走っていた。北大路バスターミナルはかつての北大路車庫。京都の市電の大きな車庫があったところである。
 僕は1978年に市電が全面的に廃止された時点で「京都」というのは終わったと思っている。だから今あるのは元・京都だった地方都市、すなわち京都の残骸ということになる。
 市電が廃止された京都の町の残骸をわがもの顔で走るようになったのは市バスとクルマである。走る気になりさえすれば路線を外れてどこでも走ることのできる市バスがダメなのは、軌道の上しか走れない市電のような不自由であるがゆえのダイナミズムを持ち合わせていないからである。東大路通りから北大路通りへ90°のカーブを切る市電、そして北大路車庫へと入ってゆく市電には湊谷夢吉の作品に通じるメカニカルなダイナミズムがあった。
 彼はガタゴトと車体を揺らしながら軌道上でカーブを切って北大路車庫に入庫してゆく市電を見ながら子供からオトナになったことだろう。そしてそのことが彼の作品にいくばくか影響を与えているに違いないのだろう。北大路車庫は湊谷夢吉の生みの親の一人であろうというのが僕の個人的な推測である。
「源融(みなもとのとおる)河原院址」
2005年4月14日撮影

 これが『鴨川・冬」ページにある「冬の色 @赤の寒樹」の根っこの部分である。
 「此付近 源融河原院址」の石碑が傾いて立つ。しかしこの画像では刻み込まれた文字が読めるわけがない。平安時代に権勢を誇ったという源融の石碑は手前ではなく、高瀬川の向こう側の木の根っこのほうである。木の幹がV字型になったその最下部に石碑らしきものが立っているのが見えるはずである。
 画像の奥にわずかに見えているのが鴨川の河原だから、なるほど「河原院址」だ。手前に見える石垣の下が高瀬川。高瀬川が開かれたのは1614年だから、源融のいた平安時代には高瀬川が存在しなかったのである。
 現在はまだないが、2007年頃には石碑とエノキの大木の周囲に鎖が張られ、立て札も設置されていることだろう。さよう、僕の目には未来が見えるのである。
「源融(みなもとのとおる)河原院址」
「耳塚」
2004年9月21日撮影

 高瀬川の正面橋上から東を向くと鴨川に架かる正面大橋が見える(鴨川・春→義眼)。鴨川を渡ると正面通り商店街である。僕が子供のころは栄えていた。それを抜けると広い上り坂になり、坂道の行き止まりには秀吉をまつる豊国神社がある。
 正面通りというのは、豊国神社の正面という意味であろう。豊国神社の北隣の方広寺には国家安康の鐘まであるが、僕はべつだん興味がない。それよりも坂道の途中、南側に小さな塚がある。これが耳塚(別名、鼻塚)である。秀吉の朝鮮侵略の際、首のかわりに斬り取り塩漬けにして持ち帰った耳や鼻が埋められた塚であるという。いつのことだったか、半島からの旅行者とおぼしい一団が、塚の下で祈りを捧げている姿を見たこともあった。
 耳塚は今でこそきれいに整備されて柵と鎖に守られているが、僕が子供の頃にはそんなものはなく、登りほうだいだった。小学校が終わると、勢いよくてっぺんまで駆け上がって遊んだ。耳塚という名前だけは知っていて、へんな名前だとは思ったが気にもとめなかった。なにも知らずに登って遊んでいた子供がある日ふと耳塚の意味に気づく。それはそれでよかったと僕は思うのである。
「耳塚」
「廃墟」
2004年8月13日撮影

 これは高瀬川沿いに移転してくる前の僕の仕事場、今は廃墟と化した旧多田製張所内部の画像である。この写真からは、どうも僕の感性らしきものがうかがえるような気がする。「感性」が言い過ぎならば負の記憶でもかまわない。そうとしか言いようのないものがここにはたしかにある。
 平静な目で見ればここはただの廃墟である。だが僕の心の内部にある「それ」が、柱を光らせ階段を光らせ、パレットの闇を生み出し、打ち棄てられた紙をより白く見せ、粗末な窓の外の蔓草の緑を色鮮やかに変え、まぶしい外の光を希求してやまない。
 ここでの年月にはいろいろなことがあった。長い髪を機械に巻き込まれたパート女性もいたし、怒って辞めた女性もいた。半日でいなくなった男性もいたし、逃亡した住み込みの少年もいた。
 かくいう僕自身、機械のロール間のわずか3ミリしかない隙間に右手を突っ込んでしまい、挟まった指を咄嗟に引き抜いたところ、中指の肉がズボッと骨から抜け、神経一本でぶら下がっているという体験をした。まるで『ターミネーター』のクライマックス状態ではないか。けっして気持ちの良いものではないが、解剖学的見地からいえば貴重な体験をした。生きながらにして灰黄色をした自分の骨を見るなど、なまなかなことでできるものではない。
 三十年もの間にさまざまなことがあった廃墟。「そういう思い出もやがて消える 時が来れば 涙のように 雨のように…。」これは映画『ブレードランナー』(R・スコット監督)のレプリカントの最後のセリフ。
 そう、時がたてば消える…。
「廃墟」


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