町角に暮らす・ 歳時を横目に




京都のまちなかには古い行事が生きている。少年の夢も生きている。








「縁日のひとこま」
2011年8月28日撮影(豊国神社)

 自分のことながら、これはなぜだろうとすこし不可解に思うことがある。
 日本の映画を観ていてふいに目頭が熱くなるときである。
 僕の好きな加藤泰監督の映画の話ではない。僕が加藤泰監督の映画を観ていて落涙することはない。加藤泰監督の映画を観るときは知力と気力と感性と美意識を全開にしてカットつなぎから画面の隅々の人物の動きにまで目を凝らしているのだから落涙などしているヒマはない。
 僕がいうのはもっとつまらない映画の話である。
 「二百三高地」という長い映画、笠原和夫脚本・舛田利雄監督の東映東京撮影所1980年度作品である。
 「二百三高地」は明治天皇をはじめ、伊藤博文・山県有朋・乃木希典・児玉源太郎・大山巌ら明治政府の要人・軍人たちの思惑や指揮と、あおい輝彦・佐藤允・新沼謙治・長谷川明男・湯原昌幸など招集された兵士たちのロシア兵との死闘を交差させて描き、あおい輝彦とラストの二百三高地攻略で戦死することになる彼の意志(遺志)を受け継いで金沢で尋常小学校の教師となる夏目雅子との恋愛をからめた民族的一大叙事詩であるという。その長い叙事詩もあおい輝彦が死に、二百三高地を攻略し、夏目雅子が黒板に「美しい日本 美しいロ…」まで書いたところで泣きくずれ、乃木希典が明治天皇に涙の軍状報告をして、やっとのことで終わり、オーバーな主題歌をバックにエンドクレジットタイトルがせり上がってくる。主題歌以外には音声もセリフもないエンドクレジットタイトルバックの映像は、夏目雅子が秋の日の午後、学童たち(乳呑み児をおぶった女の子もいる)とともに金沢の野道をゆく情景が主体となっていて、戦地から生還することのできた二人、やくざの佐藤允と豆腐屋の新沼謙治のその後の暮らしがそれを縫うように描写される。佐藤允のシーンは計3カットで20秒ほどにすぎない。映画の序盤では酔ったあげくのケンカで入れられた警察の留置場で召集令状を見せられて「天皇陛下? わしゃそんな男は知らん」と言い、突撃で多数の戦友を喪い、クライマックスの二百三高地攻略では小隊長たるあおい輝彦の死骸を抱き起こして泣いた彼が、凱旋後はどこかの神社の参道の縁日の一画で「嗚呼 壮烈 旅順二百三高地一番乗り実戦報告大講演会」と称したまことしやかな見せ物の独演者として真新しい軍服に身を包んで熱弁をふるっている姿が挿入されるのである。その傍らでは刺青をちらつかせた組の若い衆二人が見物人たちから金を集めていて、あとで触れるがこれはどうしてもここになくてはならぬ演出である。そしてなにも亡き息子の位牌を抱いた老婆が佐藤允の熱弁に聴き入っているというあざとい演出などしなくとも、北陸地方の町のささやかな縁日の、それでも画面奥まで途切れることのない人波の中、あの大真面目にして大げさな顔で、大げさな身振り手振りで、大熱弁をふるっているやくざの佐藤允の、セリフの聞こえないこの3カット。ここにきて僕は突如として目頭を熱くするのである。
 これはいったい何なのであろうか。僕は加藤泰監督が「炎のごとく」という映画を大映京都撮影所で撮っていたとき、佐藤允氏に加藤泰監督との仕事についてのインタビューをお願いしたことがあり、まことに紳士的な応対ぶりだった氏の好印象が尾を曳いているのかと疑っていたが、「二百三高地」の封切り日を調べてみると1980年8月20日、「炎のごとく」の撮影開始は調べるまでもなく1980年9月26日だから話は逆。僕は「二百三高地」を観た二ヶ月後に佐藤氏にインタビューしていることになり、これは成り立たないのである。
 では何なのであろうか。これは悲しいシーンではない。それに僕は悲しいシーンで泣くことはない。この作品には心惹かれることも胸うたれることもない。また心惹かれたり胸うたれたとしても僕は落涙などしない。ただし、あおい輝彦とならぶもう一人の主人公・仲代達矢の目を潤ませた乃木希典演技からやっとのことで解放されたという歓びは僕の胸を満たした。
 するとこれは何なのであろうか。1960年代東映やくざ映画に強く惹かれてきたことから照らしてみて、僕の内部にねむる何らかの右翼的心情・情動の噴出ではないかという気もする。ただし僕は右翼的な思想とはまるで無縁なつもりでいる。いやここでは右翼も左翼もない。佐藤允は地元の組の兄貴格ではあるが町のダニではなく、まことしやかな見せ物の大熱弁は組の若い衆の暮らしもかかった彼にできる生業なのであって、だから彼なりの正業なのである。こういう多分にナニワブシ的な生のありようの描写が僕の魂の根幹に触れたのではないだろうか。
(2011年9月11日更新)



「お祭りがゆくA」 「お祭りがゆく」A

 大太鼓の音がだんだんと近づいてきた。僕もアルバイト一人にしばし仕事場を託して見物に出る。正面通りは誘導係員によってごく一時的に人とクルマの通行が遮断され、そこを行列が通過してゆく。まだ午後3時半というのに正面通りの強い西日が行列の片側に照りつける。行列の中には、多田製張所のある十禅師町の澤田氏や石崎氏の顔が見え、誘導係には三宅氏の顔もあった。お祭りの行列がふいに近しいものに感じられる。本懐を遂げて早朝の江戸の町を泉岳寺へとむかう赤穂浪人たちの集団の中に、かつての呑み友達である堀部安兵衛の顔を見いだした畳屋の親方のような心境になる。行列を見に集まってきた人たちのあいだに束の間の興奮がよぎる。そのざわめきと熱気に子供たちも感応し、イヌまで行列めがけて走り出す。飼い主らしい女性があわてて追いかける。
 子供の僕が目にした情景とのもうひとつの違いは行列の長さである。雨中の行列はもっとずっと長く、宮司は馬に乗っていた記憶がある。翌日三宅夫人から聞いたところによると、今は各休息所に立ち寄るごとにその近辺の人たちが自然と列を離れていってしまうのだという。進みゆくごとにだんだんとうらさみしくなってゆく行列というのも、地域のお祭りらしい味わいがあっていい。
「お祭りがゆく@」 「お祭りがゆく」@
2007年5月13日撮影

 東山を背景に正面通りをお祭りが横切ってゆく。1160年の創建とされる新日吉(いまひえ)神宮のお祭りである。周囲の大人たちが「ひよしさん」と言い慣わしていたからてっきり「しんひよし神宮」だと思いこんでいたら、本来は「いまひえ神宮」と読むのが正しいのだという。ただし「しんひよし」でも間違いではない。
 新日吉神宮のお祭りは5月の第二日曜日ときまっている。僕がお祭りの行列など見たのは四半世紀ぶり…どころの話ではない、子供のとき以来である。記憶に唯一残っている情景は雨中の行列だが、今日は対照的に快晴である。お祭りといっても「わっしょいわっしょい」の熱気ある行列ではない。行列は静かに黙々と歩く。規模こそ違え、京都を代表する葵祭などと同じスタイルであって、違っているのは見物の中に観光客のいないこと、近隣の人々の姿しかないことである。行列は大太鼓とともに粛々と歩くから、大太鼓の音に誘われるように人々は家を出て辻々で待つ。 
「祭りの準備」
2007年5月12日撮影

 明日は新日吉神社のお祭りである。正面通りや高瀬川沿いの木屋町通りにも行列が通るはずである。
 お祭りが楽しみだったのは小さな子供の頃である。お祭りそのものが楽しいのではなく、豊国神社の前の広い道路一帯に縁日が出るのが楽しかった。お小遣いをもらって鴨川を渡り、そこへ出かけてゆくのが楽しみだったのである。
 縁日のほうは今はどうだろう。この画像が象徴するように、当時の子供は大きくなって鴨川の空の下を離れてしまい、現在の子供の数も比較にならぬほどに減少したが、お祭りは消滅したりなどしない。
 明日の日曜日はやむなく仕事をする。貴重な常連アルバイトと二人で仕事である。鴨川の空の下にある多田製張所に朝から来ているだろうから、運が良ければお祭りの行列を目にすることができるかもしれない。
「祭りの準備」
 「地蔵堂内部」
2006年9月26日撮影
 
 これが問題の地蔵堂の内部画像である。

構想中
「大文字山(如意が岳・標高466b)に登る」
2005年5月3日撮影

 初めて大文字山に登る。
 銀閣寺門前を北に折れ、山側へ。次第に急傾斜となる山道をトコトコと登る。途中、下山してくる小学生の一団に出くわす。そういえば商報社カワカツ印刷鰍フ川勝敏史氏も「小学校のときに遠足で登ったという。40分くらい登ったところで休憩。デパ地下のおにぎりを四個も食べ、その噴射エネルギーでもって最後の長い長い石段を駆けあがり、火床に到達。さすがに汗をかく。吹き過ぎる風が肌に心地よい。連休中であるうえに気候も快適であるせいだろう、思ったより人出が多い。それも行楽客ではない。大半が京都市内に住まう人たちである。
 火床からさらに上へ。如意が岳頂上の三角点をめざす。またしても急な山道。約20分で到達。快晴の空に飛行船が浮かび、見下ろす京都の町にミニカーが走る。鴨川をさがす。両岸の木立の緑の連なりは見える。だが緑に隠されて水の流れは見えない。ためしに京都タワーに上って見たときもそうだったが、高所から鴨川の水の流れ確認するのは意外とむずかしいようである。京都タワーをさがす。あまりの好天のせいか、下界の街の空気が熱気で靄っていておぼろにしか認知できない。
 下山の途中、ふたたび火床を通る。見晴らしのよいステージ状の広い道はおそらく「大」の字の横棒である。そこから左右斜め下に細い階段状の道がのび、煉瓦の火床が間隔をおいて設置されている。この煉瓦の上に薪を置き、8月16日の夜、一斉に点火すると下界からは「大」の文字が浮かび上がってみえるという仕組みである。だがこうして火床に立ってみると、各火床に間隔がありすぎて、なかなか「大」の字を認識することができない。


構想中
「仏現寺暮餅搗(ぶつげんじくれのもちつき)」
2003年12月29日撮影

 樺J川サンプルの餅つきは、毎年12月29日に行われる。谷川サンプル恒例の餅つきに途中から参加するのは僕の歳末風景のひとコマであって、参加しないとなにより正月のお餅に困る。僕の大好物は白みそのお雑煮なのだ。
 にもかかわらず2004年12月29日、多田製張所はまだ仕事をしていた。年内の仕事は28日で終えたものの、この日はアルバイトと二人だけで残った仕事を片づけていたのである。あぁ谷川サンプルでは今頃…。僕の心は討ち入りから脱落した旧赤穂藩士みたいに焦燥にさいなまれつつ、すさんでゆく。ああ同士の方々は今頃…。
 僕は考えた。大事なお得意先である谷川サンプルの餅つきならば餅つきだって仕事じゃないか。餅つきに行くと思うからいけないのであって、仕事ならばなんらやましいことはない。そうだ、仕事に餅つきもくそもあるものか。
 自分の屁理屈に陶酔した僕はタクシーに飛び乗り、上鳥羽仏現寺町の谷川サンプルを目指す。駆けつけるやいなや、谷川社長と弟・文彦氏への挨拶もそこそこに杵を奪い取ってペッタン、フラフラ、ペッタン、ああ疲れた。余勢を駆ってつきたてのお餅で昼食を済ませ、写真を撮る間もなくふたたびタクシーに飛び乗って多田製張所に帰着。
 僕たちのタクシーに続いて多田製張所前に止まったのは、当日夕方が納期という仕事を運んできた滑`本商事の春藤哲氏であった。僕は素知らぬ顔で彼に応対しながら内心で思う。「すべり込み、セーフ!」
 (という次第につき、写真は2003年暮れのものである。)
「まわるまわるよ」
2004年8月14日撮影

 京都の地蔵盆の行事のひとつである数珠回しが始まった。町内の子供と大人の区別なく円座を組み、円周が7〜8メートル、いやひょっとしたら10メートルくらいもあろうかという長い数珠を手送りでまわしてゆく。誰かが円座の中心で鉦を叩き、数珠まわしが始まると大人も子供もニコニコと和やかな面持ちになる。だが、じつは、ほんとうは、数珠回しは痛い。時として痛い。しばしば痛い。ひんぱんに痛い。なぜか。数珠を通した太い糸と数珠の玉のバランスが悪いからである。糸の長さにくらべて玉の数が足りないからである。だから糸が微妙に余っている。玉にあいた穴は糸の太さよりも大きい。だから玉は動く。そしてそれが各人が数珠を横に手送りするエネルギーの総和でもって、思ったより高速で張りつめて回転しているものだから、ウカウカしていると指が玉と玉との間に挟まれてしまうのである。痛さの度合いは高校あたりで学ぶベクトルの問題である。集団的エネルギーのこの大きさ、この痛さは経験者でないとわからない。
 遠い昔の経験者として警告しておく。君、この画像に惑わされ心和ますことあろうとも、願わくば数珠回しの痛苦を知り、ゆめゆめ甘くみることなかれ。
「引っ越した子A」

 それからほどなく、僕はミサコちゃんのお母さんに偶然に出会っている。一年生の秋か、あるいは二年生の春の遠足の途中だった。現在のJR嵯峨野線・嵯峨駅の改札口から駅前広場に出てきた僕を、「イサオちゃん!」と呼びとめたのはミサコちゃんのお母さんであった。駅前を通りかかったミサコちゃんのお母さんは、驚くべきことに、小学生の遠足の一団の中の僕を発見したのであった。
 今でもそうだが、僕がこの身にまとう空気は、周囲の人々からどこか浮き上がっているようだ。自分では、独自の存在感がある、と都合良く解釈していてそのことに不満はないのだが、校庭でのドッジボールの場合などでは標的にされるので明らかに不利である。だがこの局面ではそのことがプラス方向に作用したのだった。宙に浮くのも悪いことばかりではないと今にして思う。
 僕のもとに駆け寄ってきたお母さんは、しばし僕を見つめたあと、「イサオちゃん。おばちゃんのおうちは今はこの近くにあるの。ミサコもこっちの学校に行ってるから、またこんど遊びに来てね」とやさしく言い、去っていった…。
それを最後に、僕はあの優しかったSさん一家に会っていない。

 …というようなことを書いているうちに、2004年度「十禅師町地蔵盆」の記念写真のできあがり。
「引っ越した子@」
2004年8月14日撮影

 この写真の中に、ミサコちゃんはいない。
ミサコちゃんのいた鈴木さん一家は、僕が小学一年生の時にどこか知らないところへ引っ越してしまったからである。
 ミサコちゃんと僕は同い年。ミサコちゃんには少しだけ年上のお兄さんがいて、鈴木さんの家でいつも三人で遊んだ。自分の家が嫌いな僕はとても幸福であった。夕方になっても帰ろうとせず、ごはんもごちそうになった。お風呂にも入れてもらった。僕の死んだ母親が夜になって迎えに来たことが記憶にある。
 紙が高く積まれて住居と仕事場の区別がなかった当時の僕の家から五,六軒北へ行くと細い路地があり、鈴木さんの家はその奥にあった。路地の入り口にある家には、細身で気むずかしそうなおばあさんが一人で住んでいた。ミサコちゃん一家がいなくなってしまったことと、地主さんだったらしいあのおばあさんのあいだに何らかのいきさつがあったのかもしれない。けれどもそうした事情は子供の僕には窺い知ることのできないことでもあった。いずれにしても四十年以上も前のことである。
 小学校では隣のクラスにいたミサコちゃんたち鈴木さん一家は、こうして僕の前からいなくなってしまったのであった。
 
「なつかしい人々」
2004年6月14日撮影

 僕が多田製張所の仕事場を高瀬川沿いにある十禅師町に戻したのは、2003年の6月1日。四十年ぶりのことであったが、むろん子供だった僕は、前回の移転には携わっていない。
 移転後の約一年間というもの、僕の目に四季の変化が映ることはなかった。南北はそのまま、東へ約四キロ移動した新しい場所での仕事の基盤を固めるのに必死だったのである。
 季節感なるものがようやく僕の目に映りだしたのは、2004年のサクラが開花した時点ではなかったかと思う。晴れた日の昼下がりだった。いつもの土曜日のように昼までで仕事を終え、東京の某評論家氏宛てに送信して批評を仰ぐべく満開のサクラを撮っていた僕の頭上で、ウグイスが一羽、啼いた。まさにそのときである。僕は金銭ではあがなうことのできぬ至福を感じるとともに、その啼き声が、僕の目に映る十禅師町周辺の映像をモノクロから色鮮やかなカラーに一変させた。そういっても過言ではない。
 それに気がついてみると、目の前に子供の頃から見慣れた高瀬川があり、サクラの木があった。すぐ近くに鴨川が流れ、正面大橋が架かっていた。鴨川にはアオサギや鴨がいて、晩秋にはユリカモメがカムチャツカから飛来した。十禅師町には子供時代からのなつかしい人々がたくさんおられて、多田製張所の仕事場を町内にふたたび設けることをこころよく受け入れてくださった。小学校に一緒に通ったかつての子供たちはそれぞれが一家の主になっていたし、学校の行き帰りに顔を合わせた大人たちも健在だった。ここには鴨川や高瀬川の四季のめぐりとともに、それらと分かちがたく結びついた人々の暮らしのさまが今も存在したのである。
 (モデルは、同じ町内にある三宅産業の三宅秀樹氏)


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