町角に暮らす・ 天空群像


天空は巨大なスクリーンである。






「王将」(1948年)
2005年12月7日撮影

 伊藤大輔監督・阪東妻三郎主演の大映京都撮影所作品「王将」は若き日の加藤泰が加藤泰通の本名でチーフ助監督をつとめた作品である。
 僕はこの映画をこれまでに二度、劇場で観ている。最初は1971年に大映が破産した後、労働組合が催した「大映良い映画を見る会」。東山区の八坂神社の斜め向かいにある祇園会館で三隅研次監督の「釈迦」と併映。劇場ロビーには何台もの机が並べられ、大量のスチール写真が一枚いくらで売られていたことを記憶している。僕は「王将」だけを観て帰った。二度目は1981年に京都府立文化芸術会館で二夜にわたって催された「伊藤大輔名作劇場」。伊藤大輔監督の未亡人も来場され、二夜とも加藤泰監督の講演があり、それを採録してあるところに掲載したことがある。だがこのとき、含羞の人であり恥じらいを知る人である加藤さんは、戦前の作品である「御誂次郎吉格子」について持ち時間の大半を費やして語っても、自らがチーフ助監督をつとめた「王将」については多くを語らず、いやほとんど語らず、自身の助監督体験についてもいっさい触れることなく、「これはね、夫婦愛の映画です、夫婦愛の。不親切ですからこれ以上言いません。よくご覧ください。タイヘン良い映画です。」と語るだけにとどめたのである。
 僕は「王将」という“物語”にはあまり心を動かされないが、「王将」という“映画”には心を揺さぶられる。ことに三吉と小春の物語の背景に働く人々の姿が点描されていることに胸をうたれる。タイトルバックにシルエットで登場する風鈴売り。飴売り。自転車の納豆売り。冒頭のチンドン屋。小春のビラまき。鉄路で鶴嘴を振るう工夫たち。ポストの投函物を回収する郵便屋。夜泣きソバの屋台を引いて登場してくる新やんは、ラストシーンではたたずむ三吉に気づかず、年老いてなお通天閣のイルミネーションが見える長屋から商売に出かけてゆく…。
 しかし、ここまではマクラである。僕がここで書きたいのはこの映画のDVDのことである。DVDには映像特典として1948年当時のあまり画質の良くない予告編が収録されていて、その最初のほうに若き助監督の加藤泰通が写っているからである。予告編が始まってすぐ、ステージ内に組まれたセットで阪東妻三郎の演技を見つめる伊藤大輔監督がいて、その背後に立つ白いシャツ姿のスタッフは加藤泰通である。しかもそれは静止画ではなく、白いシャツを着て帽子をかぶった加藤泰通もわずかに動いている。ゆるやかに動いている。生きて動いているのである。
 1970年の晩秋、僕が京都市右京区宇多野にある加藤泰監督の家に初めて押しかけたとき、加藤さんは54才であった。したがって僕はそれ以前の加藤さん、54才よりも若い加藤泰を知らない。40代の加藤泰も、30代の加藤泰も知らない。若かりし加藤泰を知らないのである。また監督の加藤泰は少しは知っていても、助監督の加藤泰はまるっきり知らないのである。なのにここには30代の加藤さんがいる。それも32才になるかならぬかあるいは32才になったばかりの加藤泰がいる、まだ助監督の加藤泰通がいるのである。それにしても32才の加藤泰のなんという立ち姿の良さだろう。少年時代からあこがれた伊藤先生のもとでチーフ助監督として働く若き日の加藤泰の身のこなしのなんと誠実で美しいことだろう。僕はそのことに、まさしくその一点に、胸震わせられたのである。だが喜ぶのは早計かもしれぬ。僕の思いこみということもあり、他人のそら似ということもある。念には念を入れる必要がある。そこで、生前の加藤泰に会ったことがなく客観的な目で判断を下すことのできる東京のSさんにこの予告編の映像を確認してもらった。その結果、Sさんもやはり加藤泰であるという。とくに鼻のところが加藤泰に間違いないという返答を得ることができたのである。
 伊藤大輔監督の背後に立ち、左手でキャメラのコードをつかんで右手に小さなルーペのようなものを持ったこの青年助監督は、1948年のこのとき32才と若く、まだ独身であった。彼は二年後の1950年には同じ大映京都撮影所の「羅生門」の現場で戦前の東宝砧撮影所時代より旧知の間柄であった監督と決定的に断絶する運命にあることをこの時点では知らず、その年の秋、レッドパージのついでのように大映を解雇されてしまうことを知るはずもなく、後に演劇活動から宝プロを経て東映京都撮影所に移り、1960年代になってようやく遅咲きの大きな花を咲かせるようになることも…まだ知らないのである。
(2011年6月25日更新)





『仁義なき戦い』(1973年)
2004年8月30日撮影

 1972年11月、京都太秦の東映京都撮影所・宣伝課で受け取った「仁義なき戦い」という題名の真新しい台本の監督欄に深作欣二の名前をみたときの新鮮な驚きを僕は忘れない。
 …と、ここまで書いたのはたしか2011年の4月。その続きを今ようやく書き出そうとして、はたと困った。何を書こうとしたのかすっかり忘れてしまっている。だがこの項の前段である高瀬川・冬ページの「その前夜」を読んで思い出した。深作欣二という映画監督は「仁義なき戦い」第一作あたりが頂点で、その後の作品は(「仁義なき戦い」の第二作である「広島死闘篇」をも含めて深作欣二の長い余生のように思えるということを書きたいと思っていたのだった。

未完









「実録外伝・大阪電撃作戦」(1976年)
2004年12月10日撮影

 1976年の正月二週作品として封切られたこの映画のミックス・ダビング作業を僕はながめたことがある。その前年の1975年12月29日。東映京都撮影所も今日で今年の仕事納めという日の午後だった。宣伝課に顔を出したあと所内を歩いていたら、物置にしかみえない建物の前に中島貞夫監督がいた。「何をしているのですか?」というと、ミックス・ダビング中であるという。誘われるままに内部に入るとうす暗い中にスクリーンがあり、数名のスタッフが思い思いの席に座っていた。ミックス・ダビングというのは、編集されてはいるがセリフしか録音されていないフィルムを1シークエンスごとに映し出し、監督の指示のもと、用意された映画音楽や効果音や、必要とあればセリフやナレーションなどをミックスしてゆく作業である。すべての撮影が終了した後の最後の仕上げとあって、中島監督、牧口監督補以下スタッフ諸氏の雰囲気に余裕が感じられた。
 僕が手近の椅子におとなしく腰掛けたあとスクリーンに映し出されたのは、クライマックスとなる人間狩りの直前、追いつめられて明日のない双竜会のチンピラどもが広間で乱痴気騒ぎに興ずるシーンだった。中島監督が「片桐は(所内に)いるか?」と言い出した。まだ若かった片桐竜次が呼ばれてきた。彼は用意されたマイクの前に立ち、監督の指示に従って叫び始める。「明日がないんや〜。明日が…明日が〜!」。度肝を抜かれるような絶叫、魂の叫びであった。年が明けて1月後半、東映の封切り館に赴いた僕は、片桐竜次のこの日の絶叫が完成作品に使用されなかったことを知った。
 中島貞夫の作品を観ているとフラストレーションに身悶えすることがある。「極道戦争 武闘派」とテレビ映画の「東京クーデター」がその典型である。どちらもクライマックス近くで決起部隊が結成され、さあこれからとなったところで何もできぬままあっけなく自滅してしまう。このカタルシスを否定する不発ぶりにこそ中島貞夫らしさがあるといわれても、では日常生活の憂さをささやかに晴らすことを求めて映画館の暗闇に入ってくる(当時の)大衆映画の観客の置き去りにされた宙ぶらりんの心情はどうなるのだろう。いやそこまで極端ではなくとも、中島貞夫の作品にはいつもどこかにそういうおもむきがある。だが(だから?)僕はその傾向からいちばん遠く、大組織の人間狩りによって追いつめられた双竜会が自滅するのではなく壊滅させられてゆく過程を丹念にリズミカルに描いて、たとえ片桐竜次のアフレコの絶叫がなくとも観客の心情が置き去りにされることのないこの作品や、高田宏治ではなく野上龍雄のもっとすぐれた脚本を用いた「現代やくざ・血桜三兄弟」に心を寄せるのである。






「博奕打ち・総長賭博」(1968年)
2007年1月13日撮影

 僕は山下耕作という監督の映画には思い入れがない。『博奕打ち・いのち札』や『日本任侠道・激突篇』のクライマックスシーンでは賭場のセットに血の池を現出させ、『博奕打ち・いのち札』なら鶴田浩二がそこで多数の敵と斬りむすぶ様をハイスピード撮影のスローモーションで見せてくれるが、ああいう表現は観ていて赤面する。賭場の白い盆茣蓙を取り囲む赤い血の池など、あれは山下耕作のアタマの中の観念の世界であって、セット撮影の現場にうまく具象化できるはずがないのである。山下作品の花の使い方にも僕には気恥ずかしさが先にたつ。『緋牡丹博徒』の牡丹の大写し、あれが何らかの美意識なのだろうか。名作といわれる「関の弥太っぺ」の垣根に咲くムクゲの花にしても山下耕作の画作りは平板ではあるまいか。花を大写しにしたり咲き乱れさせる必要はない。花はさりげなく置かれているにかぎるのである。僕が理想とする花の使い方は、加藤泰監督『沓掛時次郎・遊侠一匹』の中盤、おきぬさん母子がいなくなった離れの内部、粗末な小机の上の花瓶に桃色の花のついた枝(太郎吉が庭から採ってきたもの)が挿されている情景である。あれが作家の美意識というものではないだろうか。
 脚本家・笠原和夫と組んだ作品でいえば、「緋牡丹博徒・鉄火場列伝」やとりわけ「女渡世人・おたの申します」の作者たちの自己陶酔ぶりには違和感以外の何物をもおぼえない。極めつけの「博奕打ち・総長賭博」の砂上の楼閣のような構造には面白さとむなしさに引き裂かれてしまう。どこまでも僕は山下耕作とは合わないなと思っていたら、東京のSさんから「博奕打ち・総長賭博」は「中井(鶴田浩二)と松田(若山富三郎)の恋物語」だという指摘を受けた。未知の女性であるSさんは、中井の妻である桜町弘子も松田の妻である藤純子も「やくざ社会に都合のよい女、刺身のつま」だとしたうえで、「その波乱万丈のスト―リ―に、「中井と松田」は振り回され、観客は息つく暇もなく画面に釘付け。やがて三島由紀夫の望む、終焉の滅びの世界、死へと向かいます。「中井と松田」の悲恋物語です。」と指摘するのである。僕など思いつきもしなかった指摘である。ならば、せっかくだからそれをもう一歩だけ進めてみてはどうだろう。その悲恋物語に両者どちらにとってもの可愛い子分である音吉(三上真一郎)を加えて、中井と音吉と松田がひたすら死へと突き進む三角関係のドラマだというのはどうだろうかと思う。
 それにしても「博奕打ち・総長賭博」を理解するとは、ちょっと女性とは信じられないような感性を持った女性がいるものである。
(2011年3月1日更新)






























「眠狂四郎炎情剣」(1965年)

 『眠狂四郎炎情剣』は三隅研次監督の作品の中でももっとも三隅研次らしい映画であると僕は思っている。なにが三隅研次らしいのか。カットとカットの間の捕り方。カットつなぎの呼吸である。昼間の居酒屋でひとり酒を飲む狂四郎に捕り方に追われた男が助けてくれと必死ですがるシーンがある。にべもなく拒絶されて男は引き立てられてゆくが、居酒屋を出た狂四郎は幕府の隠密らしい正体不明の集団に襲われる。この一連のシークエンスのカットのつなぎ方には大胆な省略がある。



 僕はこのシークエンスを何度観ても飽きることがない。観るごとにそのカットつなぎの呼吸の鮮やかさにため息をつく。僕にとって三隅研次は、カットつなぎの呼吸とどこかモダンな美意識の監督である。
 





『沓掛時次郎・遊侠一匹』 (1966年)
2004年11月28日撮影

 『沓掛時次郎・遊侠一匹』について一つだけ言いたいことがある。
 時次郎とお絹さん母子が歩く土手道のシーン。渡し舟の中でふと心が触れ合った時次郎と母子がホリゾントに描かれた鰯雲をバックに分かれ道まで共に歩くというこの映画の名シーンのひとつである。
 美術監督・井川徳道は鰯雲の描かれたホリゾントに対して土手道のセットを平行ではなく斜めに組んだという。





 カットが切り替わると、その夜、とある貸し元の家の土間で一宿一飯の仁義を切る時次郎がいる。キャメラはその姿を横から撮っている。そしてここが重要なのだが、そのキャメラが後退してゆくのである。
 僕はこの映画のこの後退カットを見るたびに胸が騒ぐ。背中に電流が走る。脳髄が快感にあえぐのである。これはなぜだろう。加藤泰のコンテはここでなぜ、キャメラの後退を選択したのであろうか。それを考えてみたいと思うのである。
 重要なのは、美術監督・井川徳道がパースを描き図面を引いた夕焼けの土手道のラストカットで、お絹さんが


未完

「沓掛時次郎・遊侠一匹」






『天空の城ラピュタ』(1986年)
2005年8月20日撮影

 このページに関して僕の撮った画像優先ではなく、まず映画作品ありきで選んでいる。正確にいうと、僕の取り上げたい作品のイメージに沿う画像を、このサイトの偉大なる編集顧問である東京のN氏に選んでもらっている。
 だがこの一枚は僕が選んだ。それもまず画像ありき。この画像ならば映画は『天空の城ラピュタ』以外にはあるまい。
 この画像をみるとパズーの父は正しかったことを確信する。ラピュタ雲は実在したのである。だが飛行石を持たずシータもいない僕にはこれがラピュタ雲だと断定することができない。まして父さんが残した熱い思いもない。空中海賊のおっかない婆さんもいない。はるかなる空の高みにあるラピュタ雲をこの地上から見上げ、あの中に姿を隠しているにちがいない飛行島に思いをはせ、せめて画像をデジカメに収めるしかなかったのである。この日以後、ラピュタ雲を見かけたことはない。






『座頭市血笑旅』(1964年)
2004年8月6日撮影

 三隅研次監督による『座頭市物語』は疎外者の孤絶を描いた秀作であった。だが座頭市は次第に国民的ヒーローとなり、シリーズ第八作目にしてふたたび三隅監督の手に戻ってきたこの作品では、もはや疎外者の孤絶ではなく、はみ出し者のさびしさをユーモアと感傷をまじえて描いている。
 駕篭に乗った座頭市と間違われて殺された女。女が遺した赤ん坊を座頭市が父親のもとまで送り届ける旅をすることになる。途中から女スリを含めた三人旅になり、情が移った二人は終着点が近づくにつれ赤ん坊を手放すのがつらくなる…。センチメンタルでヒューマンな作品である。
 僕は思う。本当によいシーンというのはストーリー進行のうえではあまり重要でない場面であることが多い。この作品でいえば赤ん坊を抱いた市が子守女のわらべ唄に足を止めて聞き入る数カットである。とりわけ、前景には子守女が立つ古びた木橋(子守女は足しか映らない)、画面奥の土橋に赤ん坊を抱いた市がたたずむカット。シネマスコープのフレームをフルに活用して、これを小川からのローアングルでとらえた構図に僕は鳥肌が立つのをおぼえた。極端な言い方をするようだが、このカットが『座頭市血笑旅』の命である。このカットが『座頭市血笑旅』で、あとの全部は商品としての体裁を整えるための容器ではないかと思われてしまう。この時点で僕は笑いと涙のストーリーはどうでもよくなった。残りの部分も全部忘れた。





『一心太助・男の中の男一匹』(1959年)
2005年5月19日撮影

 東映時代劇時代の中村錦之助(のちに萬屋錦之介と改名)が加藤泰監督と組んだ『風と女と旅鴉』『真田風雲録』『沓掛時次郎・遊侠一匹』はすばらしい。沢島忠監督と組んだ『一心太助』シリーズも僕には忘れがたい。
 威勢がよくて情にはもろい魚屋の太助と将軍・徳川家光を彼が一人で演じ分ける。太助の後見人であり、家光の成長をわが孫のように見守る天下のご意見番・大久保彦左衛門には月形竜之介。後の作品では同じ役を進藤英太郎も演じている。進藤英太郎は溝口健二監督『山椒太夫』ではタイトルロールを演じたアクの強いバイプレイヤーだが、彼の彦左では月形彦左のような滋味に欠けるのである。
 第三作『一心太助・男の中の男一匹』は、太助と大久保家の腰元であったお仲との祝言から始まる。新婚早々というのに家出娘や居候が押しかける。長屋を巻き込んだ事件まで持ち上がる。だが中盤でひとまず落着。太助たち長屋の住人側の勝利である。
 その夜、太助の家では長屋一同の宴会。フスマを取り外して楽しそうに嬉しそうに歌って踊る太助以下長屋の面々、家出娘、居候。美術監督・井川徳道が作った太助の長屋からカメラがパンすると、長屋の表の暗い井戸端に彦左の姿がある。身分違いゆえに中には入らず、太助の長屋の様子を見守ってたたずむ彦左の老体も、歌に合わせて揺れているようである…。
 これは、いわゆる東映娯楽時代劇の中でも最良のシーンのひとつであろう。ゆっくりと揺れる彦左の上体に共鳴して僕の身体も至福に揺れる。だが、翌朝。太助のもとに届いたのは、彦左の死の知らせであった。電車石(京都市電の軌道に敷かれていた)を敷きつめた魚河岸の大セット。人気のない早朝、悲嘆にくれる太助の姿が痛ましい。雪がちらついてくる。
 作品のラストでは将軍家光と魚屋の太助のひそかな目通りが(ありえないことだが)かない、家光が亡き彦左の思い出を語ってコチコチの太助をねぎらう。僕の涙腺はゆるむ。頑固一徹者であった今は亡き月形彦左の情愛のほどがふかく胸にしみるのである。

「一心太助・男の中の男一匹」




『真田風雲録』(1963年)
2004年9月14日撮影

 『真田風雲録』を初めて見たのは高校生の時。映画館ではなくテレビで見た。初めての加藤泰監督作品である。幼少時に映画館で『瞼の母』を見ているがあまりに子供すぎて話にならない。
 この映画が僕を惹きつけたのも無理はない。にぎやかでさみしいアウトサイダー奇想時代劇+舞台的様式美(美術監督は井川徳道)。僕のウイークポイントを寄せ集めたような作品である。ことに、何らかの理由で主人公集団が結成され、それが何らかの要因から崩壊または離散してゆくという群像劇に僕は極度にヨワイのである。『十三人の刺客』(工藤栄一監督)、『日本暴力団・組長』『博徒外人部隊』『現代やくざ・人斬り与太』『仁義なき戦い(第一作)』(いずれも深作欣二監督)などなど。僕が東映ヤクザ映画を好む理由がおそらくここにある。
 福田善之の戯曲を原作とするこの映画の準備稿台本には、加藤泰自身による次のような書き込みがなされている。
 「テーマの問題
 作者が言いたいのは 安保のザ折の体験ー怒りーをぶつける事で将来への展望ー希望?
 ザ折に対して何かを?
 人間がこの世にある意味を探る 連帯ということ だが一人一人はあくまで孤独 それを認めて」
 このとき、加藤泰は46歳。
 現在の僕よりも若かったのである。




『忍びの者・続霧隠才蔵』(1964年)
2004年8月8日撮影

 中学一年生の時から親にもいわず町の映画館へ通っていた僕だが、これはめずらしく中学二年の時にクラスの友人と見に行った二本立ての一本。併映は『『座頭市関所破り』(安田公義監督)だったが、僕のメインはこちらの方。モノクロの忍者映画に心惹かれていたのである。たしか1964年の12月30日だったと記憶する。
 大坂夏の陣は豊臣方の敗北に終わった。徳川方の砲撃により大坂城は炎上、豊臣家は滅亡。茶臼山の戦いで死なず(!)意に相違して生き残った真田幸村(城健三朗=若山富三郎)は霧隠才蔵(市川雷蔵)の操る小舟で大坂城を脱出、安治川から海へ出て、薩摩へ逃れ島津家を頼って…という設定の作品である。
 この作品の異様さは、幸村が冒頭から一貫して死を望みながらもそのつど霧隠に諫められ、徳川家康の命を狙うことだけが目的と化した彼の熱情に気圧されるように図らずも生き延びるという点にある。だが霧隠は鉄砲を求めて種子島に渡り、徳川の圧力に屈した島津は幸村を差し出す。幸村は護送される駕篭の中で自害。残された霧隠は単身駿府城に忍び込む。城内の屋根裏で待ちかまえる服部半蔵以下忍者群との死闘を制した彼が見たもの。それは死の床につく老人・家康の姿でしかなかった。
 城を脱出した霧隠の内心の声。
 「(コマ止め画像で)殿。霧隠才蔵は勝ちました。このとおり勝ちました」
 そこに二枚の字幕タイトル。
 「元和二年四月十七日 徳川家康死去」
 「即日喪は発せられたが政局は微動する気配さえなかった」
 堀端を走る霧隠。さらなる内心の声。
 「勝ちました。勝ちました」 
 エンドタイトル。
 なんたる執念。だがなんたるむなしさだろう。池広一夫監督のこのモノクロのプログラムピクチャーが中学生の僕の心に響いたのは、ひとえに霧隠才蔵のむなしい執念への共感、ただその一点に尽きる。どうやら僕もこの種の思いこみが深いたちらしく、大人になった今もこの映画をDVDを観て倦むことがない。








『怪談』(1965年)
2004年9月4日撮影

 小学生のときに見たもっとも印象的な日本映画が『炎上』であるならば、中学生では小林正樹監督の三時間におよぶ大作『怪談』である。
 戦争で敵から受けた弾丸が太ももにまだ入ったままだという元少尉の美術の先生がいて、彼が授業の途中、この映画のことに触れたのである。当時はまだ町なかに小さな映画館があり、封切り落ちの作品ならば繁華街まで出なくても見ることができ、家から歩いてゆける小屋に『怪談』がかかっていた。僕は誰にも言わず、土曜日の午後、一人でひそかに見に行った。
 『怪談』は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を原作としたオムニバス映画である。美術監督は戸田重昌。第一話が「黒髪」。屋内の一角に水がこんこんと湧き出ているという不思議な設定に目を奪われ、映像とのシンクロ度を微妙にずらした武満徹の音響効果に震えあがった。しまいには奪われたはずの目をつむってしまい、昼間から映画など見にきたことを後悔した。第二話「雪女」。野面セットの背景(ホリゾント)には、巨大な目や肉感的な唇がシュールに描かれていた。こういう映画表現を中学生で体験してよかったと思うのは今にしてのこと。あのときは場末の小屋でこんな長い映画を無理して見ていることへの不安と罪悪感の波が僕を呑み込んだ。あの「宇宙の目」が、スクリーン上から僕を凝視していたからにちがいない。第三話「耳無し芳一の話」。芳一が亡霊に手を引かれて石段を登ると、平家の亡霊が居並ぶステージがある。居並ぶ極彩色の平家の貴人たちは、芳一の奏でる琵琶の音に涙しながらも、客席の暗がりに息をひそめる中学生の僕を見つけ、勉強もしないで昼間から映画など見ていることを、みんなで責めていた。第四話「茶碗の中」には結末がない。だが僕にはあった。滝沢修演じる作者が暗い甕の底から僕にむかって「悪い子はおいでおいで」をしていたからである。エンドマークが出るなり家へ逃げ帰った。





『炎上』(1958年)
2006年9月22日撮影

 市川崑という監督は僕にとって重要な映画作家ではない。むしろどちらでもよい存在である。だが『炎上』(大映京都撮影所作品)は認める。『炎上』を見たのは僕が小学校二年生の時。京都駅前にあったステーションキネマという大映映画の封切館(当時)へ、十禅師町の町内会のレクレーション行事として見に行ったのであった。当時は年に一回は貸し切りバスでの町内会の日帰り旅行があったが、映画鑑賞などというのはこの一回しか記憶にない。あるいは京都で起こった国宝放火事件を素材としていたからだろうか…。
 さて、町内の大人たちに連れられて映画館に行ったものの、『炎上』はもちろん子供向けの作品ではない。このような作品の鑑賞に町内の子供が何人参加したかも不明である。だが当時七歳だった僕はこの映画を子供なりに理解した。DVD化された『炎上』を再見してみると、仲代達矢のアタマのねじれた大学生の存在が、僕の子供時代の記憶からは完全に欠落していることに驚く。だけどその理由はわかる。子供の僕にはあのような人物が理解できず、だから脳裏に記録されなかったのである。つまり僕は市川雷蔵演じる青年の内面に分け入ることによってのみ、『炎上』の作品世界を理解していたようである。もっともそれには理由がある。金閣寺(映画の中では別名)に放火する主人公は吃音というハンデを抱えているが、僕も当時は吃音に悩んでいた。そのためだろうか、彼が遊郭の女に言う「英語とお経を読むときはドモらへんのや」というセリフを今でも鮮明に記憶している。いくらかの限界はあるにせよ、子供は子供なりの感受性でもって大人の映画を理解するものである。子供には子供向け映画しか理解できないと思っているのは、大人の認識不足にすぎない。
 それにしても市川雷蔵という映画スターはどうしてこのような人物像をここまで演じ切ることができたのだろう。この作品の彼は他のどの作品の彼でもない。『炎上』でしか見ることのできない市川雷蔵である


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