町角に暮らす・ 塔影三十六景

塔の正体はJR京都駅の真正面にそびえ立つ京都タワーである。
鴨川の空のむこうの塔影となるとき、
はじめてこの塔の美的存在意義が生まれる。



「凌雲閣の影」(プロローグ)
2004年 月  日撮影

 僕がなぜ「塔影」にこだわるのかを考えるとき、思いあたる映画がある。加藤泰監督の「緋牡丹博徒・お竜参上」(1970年 東映京都撮影所作品)である。
 当時全盛期にあった東映任侠映画路線中で人気を博していたシリーズの第六作。藤純子演じる女博徒・緋牡丹お竜が東京・浅草の鉄砲久一家に草鞋を脱いだことからドラマが動き出す。時代は明治末期。浅草には十二階建ての凌雲閣がそびえ立っていた。
 この映画の脚本(加藤泰・鈴木則文)の巧妙なところは、屋外の各シーンでは遠くの凌雲閣の姿を常に背景の一部として見せておいたうえで、その凌雲閣自体(の内部)をクライマックスの死闘の場として設定したところである。いわばドラマそのものが凌雲閣へ向けて収束してゆくという構造になってる。そこにいたる雪の今戸橋をはじめ、夕暮れの淡島天神、六区の興行街ほかのバックにもちょうどこの写真の京都タワーくらいのサイズの凌雲閣が屹立していた…。
 僕は京都タワーの塔影を撮りながら、心の中では井川徳道美術による凌雲閣の影を追い求めているのかもしれないと思うことがある。
 さてこれから、かくも僕を魅了した加藤泰という映画監督との出会いと交流と別れについて、「凌雲閣の人」と題して書き進めてゆこうと思うのである。
「凌雲閣の影」
「凌雲閣の人」

 1985年5月2日、加藤泰監督から僕あてに一通の速達ハガキが届いた。

「多田功サン。
勝手なお願いがあります。
半日僕のため、勤労奉仕をしてくれませんか。用件は白黒写真の撮影です。
被写体は(1)大雄寺の山中貞雄の墓。(2)山中貞雄が下宿していた竜安寺の塔頭西源院です。
序と言っては何ですが、そのときネガを預けますから山中が入営していた福知山の由良川の音無瀬橋の写真のプリント焼付です。  
無論実費雑費は小生負担です。
問題は何時があなたの都合がヨロシイかですが、それも僕の勝手を先に言ってしまいます。五月四日午前十時に僕は丸太町の京大病院の近くの吉川外科という所へ、C・T検査というものをして貰いに行かねばなりません。ヒル頃にはすむと思います。その頃そこで落ち合うことが出来れば有難いのですが、でも以前のあなたとは違います。そう僕の勝手ばかり言へません。このハガキ着いたら一ペン電話を下さい。」

 これが加藤泰監督独特のペン遣いで記されたハガキの全文である。差し出し人名の上に加藤泰自身による「五月一日」との日付記入があり、消印は京都宇多野、中京の両郵便局ともに5月1日である。したがって遅くとも1日夕方ごろまでには投函され、2日午前中に配達されてきたものと思われる。
 5月2日は連休合間の平日(木曜日)であったが、僕は午後1時すぎに帰宅した。当時は身体が弱く、一週間ばかり前にひいた風邪のために体調を崩していた僕は、この日の朝から左京区の山手にある日本バプテスト病院へでかけて種々の検査を受け、いささか不安定な心理状態のまま帰宅したところであった。とはいえ少々の風邪で休んではいられないし、午前中に病院へ行ったくらいのことで午後も休んでしまうわけにはいかないのが自営業者(正確にいうならば当時は自営業者の息子)というものである。一度帰宅したのはしばしの休息を取って体調を整えてからその日の仕事に出かけてゆくためであった。ましてやふだんの僕ならば平日の昼間に帰宅するなどまず考えられないことであったから、加藤監督からの速達ハガキに気づいたとき、なによりもまずその偶然の符合に対する驚きの気持ちが先に立った。
「凌雲閣の人」
 それにしても加藤泰監督からハガキをいただくなど異例なことである。むろんたまにお電話やお便りがなかったわけではない。だがそれにしても、あえて速達にする必要があるのだろうか。
 そのことに対して僕は心のどこかでみょうな引っかかりをおぼえた。

 話はここで1970年11月にさかのぼる。
 
 
                 


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