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僕はいかなる運命をたどってこのようなサイトをはじめるに
いたったか。



鴨空の下で

すべては、長津忠氏のひとことから始まった。

“多田さんに写真の才があるのか、マシンのせいなのかは議論の余地はあるにしても、ぼくは、そういうものを見抜く能力は人並みにはあるんですよ”


2003年の5月にようやくパソコンを始めたものの、デジカメなるものには興味がなかった。その僕に購入を勧めたのが長津氏であって、機種の選択に迷ったあげくCONTAXを選んだ僕の決断を、なかばあきれながら評価してくれたのも長津氏であった。長津氏は僕にとって年長の知人である。もとはといえば長津氏は僕が若いころに東京で師事していた人物の盟友であって、僕と格別に親しいという間柄ではなかった。長津氏はプロの編集者(現在は編集プロダクションを経営)で、マンガ研究・評論家として数冊の著書があり、映画「トキワ荘の青春」の原作者の一人で、骨董を深く愛してこれまた著書があり、評価に困った骨董店から鑑定を依頼されるほどの鑑識眼を持ち、絵画や仏教建築や仏像にも造詣が深く、おかしなもの(多田製張所の元の仕事場で使っていたK判大のパレット)を欲しいと言い、のちに僕の写真にたまたま写っていた大島さんの台の下の鉢を貰ってきてくれないかと言い、毎日あきれかえるほどのタバコを吸い、かつては草野球のレフト兼四番打者(のちには監督)として空前の打率四割をマークし、詩や純文学はおろか時代小説やミステリやSFまで丹念に読み、小津安二郎やビリー・ワイルダーが好きかと思えば股旅映画や東映ヤクザ映画までしっかりと観ており、なぜかB級SF映画を好み、どんなときにも物静かでけっして怒らず、おまけに趣味は盆栽で、「ボクは人間と骨董だけは見る眼がある」と謙虚に豪語しておられるのだから…書いている僕が疲れるほどの能力がたった一人の肉体と人格の中によく収まっているものだと思うほどの怪人物である。
僕がCONTAXで初撮影して送信した一枚の高瀬川の情景写真に対して、その長津氏から上記のようなメッセージが届いてきたのだから、モノにも作品にも人物に対しても見る目の厳しい長津氏から生まれて初めての評価を受けたことになる。僕が驚いたのも無理はあるまい。僕が「その気になった」ことも。もっとも、まだこの時点で僕のアタマにはホームページのホの字もない。「その気になった」というのは、デジカメで写真を撮ることと、それを毎夜のように長津氏に送信しては批評を仰ぐことである。
それからが、さあたいへん(もちろん長津氏のほうです)。僕からの写真は毎夜送られてくる。僕のほうは仕事に拘束されているものだから昼間は近場の対象で済まそうとする。現在の仕事場の前を流れる高瀬川と、歩いて5分の距離にある鴨川である。現在の仕事場というのはもともと僕の生まれ育った家があったところだから、高瀬川と鴨川に対しては、それなりの思い出なり思い入れが僕の意識の底に眠っていたのだろう。長いブランク期間をおいたのちに、なぜか仕事場への通勤という形で生家のあった場所へ戻ってきたことによって、喪われた記憶を求める半異邦人としての目を通して改めてながめることができたのかもしれない。
こうして『鴨川の空』の鴨の字くらいは始まった。
僕としては当初、たんに「高瀬川と鴨川」程度の認識で撮っていたのだが、それぞれに夏があり、秋があった。忘れていたが冬と春まであった。秋にはユリカモメたちが遠路飛来し、冬になると雪が降った。忙しいったらありゃしない。追い打ちをかけるように、春にはサクラまで咲き、夏には木々が生い茂る。秋にはそれが紅葉して散る。それだけではない。鴨川には、橋、古い石段、放水路はおろか、空まであった。空には気まぐれな雲がいて、落日と競い合うように夕焼け雲に変身した。しかもあのタワーを忘れていた。鴨川からタワーの姿がうまく望めるのは、僕の庭場たる五条から七条の間だけであることに気づいたのである。僕は毎日クラブマンにまたがって出勤してくるたびに、空を見上げ、風を読み、雲の方位を探り、その日の撮影場所とテーマを予測する。そのうえで昼休みと、時間が許せば夕暮れどきに出かける手はずを整える。こんなに忙しい僕なのに、仕事の電話がかかってくる。トラックで紙が入荷してくる。単価はいくらかと尋ねられる、納期はいつだと責められる。何の因果か多田製張所の仕事までしなくてはならぬ。
だが、これだけではHP『鴨川の空』の表層が成立したにすぎない。
「仏作って魂入れず」だからである。
長津氏は次のように言っている。

“高瀬川セクションを見ていてつくづく思いました。京都というところには、現在ただいまも暮らしの中にいわゆる「ご町内」や「お隣さん」が生きているのだな、と。東京でははるかに遠い半世紀くらい以前に存在していたもので、それを「文化」と呼ぶのだろうと思いますね。ただひとつ、京都の現在にも失われたものが、路地裏にもあふれていた(?)子どもたちの存在なのでしょうね。数少ない現代の子どもたちには、おとなになっても「イサオちゃん」と呼んでくれるような先行世代のおとなたちはきっといないだろう、ということです。
そういう、あれやこれやで「鴨空」HPの存在は、意義があるなあとあらためてうなずいている今日この頃なのです”

これは、ホームページを持つことを奨めてもいっこうに着手しようとしない僕にしびれを切らした長津氏が、本来の業務の合間に自らの手でコツコツとこのHPの枠組みを作って、東京から京都まで持ってきて、僕に写真と文章の入れ方からホームページ管理者としての心得までを指導して帰ったあと、僕の作業の進行具合を自宅のパソコンでチェックしつつ、送ってこられたメールの一部である。
 このように、長津氏は一枚一枚の写真に対してあれこれと指摘をしてこられるのではなく、心と体を「鴨川の空」の内部に置いている僕の目には映っていないもの、僕には欠如しているもっと大きな視点から、『鴨川の空』全体の本質ともいうべきものを見つめてくださっていたのである。

 また、写真に添える文章の執筆を、編集のプロである長津氏に見守っていただいたことは、僕にとって大きな励みとなった。長津氏は高校時代には教壇で落語を一席演じた(これは長津氏の盟友からかつて聞かされた話)くらいの「センス」の持ち主である。僕が書いてはアップしてゆく個々の文章に対して長津氏から厳正で的確な評価をいただき、暴走に歯止めをかけていただき、文章表現上における細かなアドバイスをいただいたことは、僕の文章に質的な向上をもたらした。

長津氏に感謝しなければならぬことはまだある。
僕のパソコンがリカバリという事態に陥った際、僕がそれまでに撮った写真を失わずにすんだのも長津氏のおかげである。僕はすべての写真をパソコンに取り込んだまま放置していたが、長津氏は怠惰で行き当たりばったりな僕に替わって、僕から送信されたすべての写真をCD-Rに保存していてくださったのであった。そうである以上、各ページに掲載する写真の選定の大半を長津氏にお願いしてしまったのも無理はあるまい。
もし長津氏の存在がなければ、ホームページ『鴨川の空』が存在することはなかったはずである。
僕は次のような自負を抱いている。
編集者のいる個人ホームページなどどこに存在するだろう。
長津氏はHP『鴨川の空』の父なのである。




かくして僕の文章と写真のホームページ『鴨川の空』は、着手より四年目にしてようやくスタートラインに立つことができた。
これからも写真を追加し文章を追加して、果てしなき
時の流れの果てまで進んでゆくつもりである。

2008年3月17日。



多田功
(ただいさを)





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