大気と町の底


  大気と町の底をのぞいてみるとひとりの男の影がみえる





「天才」
2015年3月5日撮影


 うちのイヌ(シーズー。女の子7歳)は天才である。
 名前は藤。通称まーちゃん。藤は藤純子に由来する。
 証拠① 

未完 



「絵画の中に」
2013年10月3日撮影
 
 古今東西を問わず絵画の中にイヌが描かれたことがどれくらいあったのか、僕は知らない。
 でもこれは東京・世田谷のSさんが僕に贈ってくださった池部良描くところの入り江の絵に、うちの藤が映り込んでいるだけ。
 藤の名は藤純子に由来する。
 池部良と藤純子。「昭和残侠伝 血染の唐獅子」では風間重吉と文代、「昭和残俠伝 唐獅子仁義」では風間重吉とおるい、「昭和残侠伝 死んで貰います」(三作ともマキノ雅弘監督)ならば風間重吉と幾江。「昭和残侠伝」つながりというべきだろうか。
 だとすると、奥に映っているのが花田秀次郎ということになる。
 (2014年5月23日更新)



(襲い来る裏柳生・黒鍬者の気配を察知せんと周囲への目配りをたやさぬ藤五郎)

「冥府魔道」(あるいは「豆腐、惑う」)
2011年7月16日撮影

 みそ汁を作るにはどうするか。
 まず、だしをとる。昆布と鰹でだしをとる。
 昆布は日高産、鰹は厚削りと業務用を混合。だしを濃いめにとって豚汁やかす汁、蕎麦や丼にも活用する。僕にいわせればだしの素はだしではない。だし入りみそというのはみそではない。似て非なるものである。「だし入りみそのみそ汁」と「だし+みそのみそ汁」の風味の違いを、コーヒーと缶入りコーヒーの絶望的なまでの落差にたとえればよいだろうか。
 みそ汁というのは①だしをとり、②具を入れて火を通したうえで、③みそを溶き入れるものであり、それ以外の便法などありはしない。加藤泰監督も言っているように「ちゃんとしたものを拵へる」には「当たりまへのことを当たりまへに」やる以外にない。ことの本質は映画でもみそ汁でも同じこと、加藤監督は映画で、僕はみそ汁でそれを実践する。おいしいみそ汁を味わいたいという願望と、おいしいみそ汁を作りたいという情熱があれば「当たりまへ」のことはできるのである。仕事で疲れていようが喧嘩(でいり)にそなえて畳を裏返している真っ最中であろうがそんなことは関係ない。手抜きはいけません。
 具は、菌類+青菜+植物性蛋白+海藻。
 これが基本である。
 菌類とは、シメジかエノキかナメコである。
 青菜とは、ホウレンソウかコマツナである。
 植物性蛋白とは、豆腐か油揚げである。
 海藻とは、ワカメである。これはしっかりとした歯ごたえを残すことのできる鳴門の糸ワカメにかぎる。
 仕上げにはミツバかミョウガ、そしてスダチの皮ひとかけを用いる。
 ただし、カボチャやダイコンやキャベツをゲストとして迎えることもあり、この場合は菌類+カボチャかダイコンかキャベツ+油揚げ+海藻という図式になり、豆腐の出番はない。僕の説では、豆腐と油揚げはみそ汁における二大主役スターである。したがって一椀の中に両雄が並び立つことはなく、競演を許すこともない。1960年代の東映京都撮影所・東映東京撮影所作品において高倉健と鶴田浩二が二人して主役を張らないのと同じである。競演したとしても比重はあきらかにどちらか一方にあり、たとえば「日本侠客伝・血斗神田祭」では高倉健+藤純子+鶴田浩二という配役が成立しているものの、この映画の鶴田浩二は数シーンのみの特別出演格であって、これは絶妙の配分である。本格的競演もないではないが豆腐と油揚げをごちゃ混ぜにしてしまってはどれも成功作とは言い難く、やはり高倉健+藤純子+池部良(「昭和残侠伝・血染めの唐獅子」「同・唐獅子仁義」「同・死んで貰います」)という組み合わせであってこそ、栄養のバランスがとれようというものではないか。さらに藤純子をメインに据えると、藤純子+若山富三郎+菅原文太で「緋牡丹博徒・お竜参上」になり、菅原文太の主演だと、菅原文太+渚まゆみ+小池朝雄+安藤昇の取り合わせで「現代やくざ・人斬り与太」のできあがり。忘れていたが鶴田浩二の東映東京撮影所作品にどうしても欠かせないのが渡辺文雄であって、小池朝雄や安藤昇も入れて火を通すと絶妙の君合わせになる。ようするにこれは緑黄色野菜と菌類と植物性蛋白と海藻を効率よく毎日摂取しようという企画意図によるものであり、これでなんとかみそ汁の話に戻せたことになる。だがシジミを忘れていた。シジミの場合は香り付けのミツバ以外には他に何も入れない。それにネギも忘れているではないか。どのような具材ともハーモニーを奏でることのできる、まるで若山富三郎のごときネギは九条ネギか白ネギ。ザックリと大きめに切って、おもに菌類+ネギ+豆腐か油揚げ+海藻とミックスダビングをする。
 最後にみそ。みそは京都の某みそメーカーの「あさげ」「芳味白」「芳味赤」「無添加減塩」「赤だし」などを適宜混合する。とくに「あさげ」は味わいのある優れたみそであって、これはみそ業界の加藤泰監督であると僕は断言する。
 照る日、曇る日、雨の日、神の火(高村薫)、一子・藤五郎を乗せた多田製張所の箱車が画像のごとく高瀬川沿いの冥府魔道を往かぬ日はあれども、僕がみそ汁を作らぬ日はないのである。
(2011年11月27日更新)
 

 
  




「越境」
2010年12月28日撮影

 京都・高瀬川沿いの多田製張所前にて人知れず開催される「恒例・藤ちゃんおいでおいで~大会」という発作的行事がある。僕とお得意先の女性がこちら側の多田製張所前に並んで立ち、右の画像の道路中央にいる飼い主が藤のリードを手から離す。放たれてトコトコとこちらへ向かってくる藤にむかって、僕と対戦相手の女性が「藤ちゃん。おいでおいで~」と手招きをする。二人から呼ばれた藤は、さてどちらの手の中に飛び込んでくるか、という一発勝負である。
 最初の対戦相手は谷川サンプルのMさんという女性だった。偶然右の画像のような状況になり、ふとした思いつきから第一回大会を開催。当然勝てると思いこんでMさんに戦いを挑んだところ、惨敗。
 第二回大会の相手は、ほぼ毎朝仕事開始前にお目にかかる‘はは・むすこ1・2’の母Cさん。僕はしゃがみこんで「藤ちゃん。藤~」と声に出して呼び、対する母Cさんは声も出さずに静かに手招きしていただけだった。のに、藤は、母Cさんの手の中に入った。衝撃。
 第三回目大会は12月29日、谷川サンプル前にて恒例の餅つき行事の終盤に開催。僕と柿本商事の営業女性のOさんが対決して、僕の完敗。Oさんは乾杯。Mさんと、母Cさんと、Oさんは、いずれも藤にとってふだんからのお気に入りベスト三傑の顔ぶれだからと気を取りなおし、直後の→
 第四回大会では藤とはあまり面識のない谷川サンプル社長夫人のM子さんと対戦。結果は、M子さんは家にイヌが二人もいるくらいだから、これは対戦相手が悪かった。そうとしか考えようがない。それにしてもこれはなんだ、なんで連戦連敗なのだろう。毎晩のように夜は僕のフトンの上で眠っている藤に、僕のことをじつはどう思っているのかいちど尋ねてみたいものだ。
 かくして2011年は背水の陣。自分が女性なのに幼少時から一貫して女性好きの藤のことだから、女性陣には連戦連敗の僕でも、そこらのオッサン相手ならきっと負けはしないぜ。 




「コロニー」
2008年12月4日撮影
 
 このページの「ごろにゃん」と「消えゆくもの」ページの「ネコは遠き夢の果てに」にて無断で画像をアップさせていただいた親子ネコはその後姿を消した。あるとき一家眷属か親類縁者か一族郎党か組員総出とおぼしき10名くらいのネコ軍団が高瀬川べりに集結していたことがあり、その全員が同じ白黒まだら模様というのがかなり異様であったが、その中にあの親子の姿を確認したのが最後になった。おそらくあれは白黒組一家内に叔父貴衆まで乗り出してくるほどの揉め事があったに相違なく、消されたのか殴り込んだのか出入りの犠牲となったのか所払い程度で済んだのか、それ以後あの親子ネコの姿を見かけたことがない。何くれとなく目をかけていた大島さんに対して別れの言葉もなかったというからよほどの事情があったと推測される。あのときの白黒組一門衆の不穏な様子を撮影した画像はうちに保管してある。
 すぐ下にある「再会」の芸達者なネコ氏にもあれからお会いしていない。こちらは飼い猫らしき気楽な風体であり、たぶんご健在であろう。
 近頃はこちらのグループを通りがかりに見かけることが多い。いずれもその日暮らしの身過ぎ世過ぎの厳しさを刻みこんだ風貌揃いで、総勢10名には満たない面々が思い思いの位置に散らばっているかと思えば、なぜか同じベンチ上で身を寄せ合っているのを目にすることもある。生まれつきのノラとみえてある距離以上はけっして近づいてこようとしないひと、もとは飼いネコだったのかクシャミをして青洟の出た顔を悲しげにすりつけてくるひと、やせこけたひと、柳生十兵衛のようなひと、なぜか要領のよさそうな丸顔のひと、ノラネコのコロニーも日の当たる昼時にはまだ比較的のんびりとしているが、冷え込む夜はいったいどうしているのだろうか。
 ノラネコの寿命はせいぜい5年であるという。


「再会」
2008年5月27日撮影

 このひとが、以前このページの「ごろにゃん」(2006年10月30日)で書いたことのあるネコ氏である。これは道ばたで寝ころんでおられるのではなく、画像奥からこちらへ歩いてきた僕に近づき、しばし僕を見つめ、啼いて、スリスリしたあと、得意のゴロニャン芸を披露してくださっているところである。僕のことを憶えておられたのか、以前のことは忘れても僕に新たなる好意を表明してくださったのか、はたまた誰に対してもこうなのか、それは不明である。

「再会」


「貌」 「貌」
2008年3月23日撮影
 
 良い貌である、年輪を刻んだ男の貌、職人の貌である…などということを僕はいわない。いうわけがない。定型句など僕には似合わない、性に合わない。いえた柄ではない。
 このお店は僕がちいさな子どもの頃からある。あったような気がする。母親に手を引かれて夕餉の買い物に毎日のように歩いた大通りに面したお店である。だが子どもに紳士靴はいらないから、さだかな記憶はない。店主によれば、自分の代になってもう50年におよぶという。大阪方面に納める紳士靴の製造所であって直売もしている。通りに面して入り口をなかばふさぐように陳列された靴は黒が多く、どれも頑丈そうなつくりである。いまふうのスマートさ軽薄さはない。かかとの当たる後ろの部分がしっかりしているのが職人の仕事だと店主はいう。しかも安価である。
 僕も一足買ってみる。ただし会社勤めではなく濃紺のジーンズ姿で歩くことの多い僕には、このようなタイプの靴が必要ではない。そこで靴型のサンダルを買ってみる。ほとんど靴のカタチをしているが数カ所に切れ込みのある黒いサンダルである。購入以来毎日の通勤時に履いているが、なるほどしっかりしている。気に入ったので同じものをもう一足買い足して延命を図る。そのような配慮も必要がなさそうな頑丈さであったが。
 この画像でもある程度まではわかるこのお店のありように、僕は惹かれる。画像の奥の見たこともない機械の据えられた作業場の部分にとくに惹かれる。それはこの「鴨川の空」サイトのテーマにも通じている、つながっている。軽々に言葉にしてしまうとスルリと抜け落ちていってしまういちばん大事なものがこのお店の空気の中にはある。その意味でこれは、「鴨川の空」サイトにとってなくてはならない重みある一枚であるといえる。
「中継ステーション」
2008年3月6日撮影

 また異国人が来た。
 昼下がりに
たまたま扉を開けてプラッターを操作していたところ、外を通り過ぎようとしていたこの男性が僕を見て立ち止まった。来るな…。そう思ったらやはり入ってきた。もの問いたげである。宿泊先の異国人むけ専用の安い旅館かホテルの場所がわからず道に迷ったのだろう。身振り手振りまで総動員して意思の疎通を図ったところ、彼の持っていた案内図が間違って印刷されていることが判明した。そのホテルに電話をかけて僕が文句を言う。地図上の位置がまるで逆方向であったことに相手も驚いたらしく、結果、彼にはもういちど京都駅まで戻ってもらい、ホテルの経営者が迎えに来ることになって落着。これまで何人の異国人たちが多田製張所に入ってきて、宿泊先までの道を僕に尋ね、礼を述べて去っていったことだろう。多田製張所には、いや僕という男には道に迷った異国人を惹きつけずにはおかぬ何かがあるらしい。とどのつまりクリフォード・シマックの「中継ステーション」の小説世界との相違は、彼らが異星人であるか異国人であるかという一点にすぎないのではないか。
 さてそれから一ヶ月以上が経過して、彼の左うしろにみえているサクラの木が花をつけて風に散り、このスイス人も今ごろは遠い母国へ帰ったものと思っていたら、なんと4月15日の昼休み、五条通りの鴨川端を自転車でのんびりと走っているところを目撃した。このようなケースは僕も初めてである。さらにその後も何度か見かけたところからするとたんなる旅行者ではなかったらしく、この異星の暮らしにもすっかりなじんだ風情にみえたのである。
「中継ステーション」
「ごろにゃん」 「ごろにゃん」
2006年10月30日撮影

 昼間外を歩くときにはグレーの度付きサングラスをかけることにしている。フレームはお気に入りのアン・バレンタインのセル。表がブラウンで裏がブルー。グラッシーズのS氏が仕入れに際して僕の顔をチラリと思い浮かべたというだけあって、ユニークな形をしている。僕以外の購入者は京都にはいないらしいから、今のところ京都市内でこれをかけているのはおそらく僕一人のようである。グレーの偏光レンズは太陽光を反射した川の中やクルマのフロントガラスの奥までもがよく見える。僕の
眼は気弱で優しいため、それをカバーして外敵から身を守るための護身用兵器として愛用している。 
 ところがである。せっかくのサングラスをかけた僕の印象はといえば、「怪しい」らしい。以前つき合っていた女性にそういわれたものである。
 ところが。そうは思わないらしいやつが予期せぬところから出現した。どこの誰かは知らないけれど、二ノ宮町通り正面下るの路上にたむろしていた飼いネコである。彼(彼女?)は通りかかった僕の怪しいサングラス姿をものともせず、じっと僕の目を見たあと、おかしなことを始めた。僕の視線を微妙に意識しながら地面に横たわるや「ごろにゃん」とばかりに身体を横に一回転させたのである。自慢の芸を披露して僕の歓心を買おうというのだろうか。通り過ぎた僕が不審に思ってふり返ると、トコトコと近寄ってきて僕の足に身体をすりつけてくる。いつか日高敏隆から(NHK教育テレビで)習った「ネコに好意を伝える方法」を実践してみたら、むこうも同じことをして「ニャァ」と鳴いた。のどを撫でてやると「ゴロゴロ」という。急いでいたから友情を育む間もなく立ち去ったが、ずっと遠ざかるまで僕を見送ってくれた。
 この画像は高瀬川沿いにある大島さん宅前に棲息している親子ネコのものだから当のネコ殿のものではないが、どうやらこのサングラス、ふしぎな力を秘めた魔法のメガネらしいのである。効力を発揮するのは今のところネコに対してだけらしいのだが。
「京都の夏が終わる」
2006年8月16日撮影

 三村晴彦監督と矢田行男撮影監督。
 三村氏は松竹大船撮影所を経て現在はフリー。代表作は松本清張原作の松竹映画「天城越え」。4本の劇場用映画の他に多数のテレビ映画がある。矢田氏は大映東京撮影所に入社するも倒産に遭う。映像京都において27歳にして撮影監督に昇進。多数の劇場用映画とテレビ映画がある。
 このコンビが今、ドラマスペシャル「信長の棺」を製作するため、8月初旬から京都の松竹京都映画撮影所に来ている。
今日はたまたま撮影オフの日。二人を河原町荒神口の「安兵衛」へ連れ出す。そのあと、夜の8時にはすぐ近くの鴨川にかかる荒神橋へ出て、順々に点火されてゆく京都の五山送り火のうちのひとつ、大文字(だいもんじ)をながめる。荒神橋の夜風に吹かれて男三人で寡黙に見上げた東山連峰・如意ガ岳の大文字は、なぜか心に沁みた。不思議なくらいこの胸に沁みた。京都に住み慣れ大文字を見慣れたこの僕にして、京都の暑い夏が過ぎ去りゆくことをはじめて肌で感じた。こんな大文字体験は初めてである。生まれてはじめて大文字送り火を目の当たりにしたという関東の二人も深く感じ入ったふうである。
 どうやら京都の五山送り火には、大勢の人出よりも適度な人混みが、蒸し暑い夏の夜の熱気よりも、今夜のような秋めいた夜風のほうがよく似合うようである。
「京都の夏が終わる」
「サマーカクテル」
2005年8月14日撮影

 ここは東京・明治記念館。たった今、つじあやのの夏のライブ「サマーカクテル」が終了したばかりである。残されたウクレレ。残された水のボトル。庭園をバックに歌っていたマイク。たった今まで歌っていた椅子。
 東京へ来るのはじつに14年ぶりである。足立区に住む編集者氏とこのホームページの打ち合わせするため、そして大阪の中村青年が僕の分まで新幹線のチケットもあわせて手配してくれたこのライブのためにやって来た。お盆休みを利用した1泊2日の短い滞在のため、中村氏に連れられて六本木ヒルズとやらのごく一部分へ行き、翌朝編集者氏に下山事件の現場跡と東京拘置所(!)の周囲を自転車で案内してもらったのみであったが、東京がとりわけ変わったという印象はない。六本木ヒルズが誕生しようが地下鉄に麻布十番駅ができようが大勢に何も影響はないのである。僕は実感した。やはり京都のほうがいい。京都には高瀬川があり鴨川がある。ビルや人家ばかりがひろがる東京で夕焼け空を見るよりも、京都の鴨川の水の流れの向こうに見る方がいい。京都には東京のような海がなく夏は蒸し暑いけれど、僕はやはり地方都市の空の下で生きるほうがいい。
 けれども、前からずっとそう思ってきたわけではない。ああ京都がいい、と実感したのはじつは今回が初めてである。もしかするとこれはあの青い色をしたカクテル、酒に弱い僕がライブ会場で出されて2杯も飲んだ「サマーカクテル」の隠された効能だったのかもしれない。
「サマーカクテル」
「安兵衛見参!」 「安兵衛見参!」
2005年3月26日撮影

 「安兵衛」の店主・岡本氏が約二十年前に季節料理の店を始めるにいたった経緯を僕は知らない。
 彼は新京極六角の玩具問屋の生まれである。彼がときおり語ってくれる子供時代の話はおもしろい。僕より二歳年下の彼は、文字どおり新京極という歓楽街の子だからである。子供だった彼がストリップ小屋のオネーサンに可愛がられたり、路上でモノ売る男に怒られたりした話を聞いていると、僕の脳裏にも子供時代に見た新京極の人波、ざわめき、盛り場特有の猥雑でよそよそしい夜の匂いがマザマザとよみがえってくるような気がするのである。だが僕には岡本少年のような「マッチ売りのオバサン」(?)体験はない。子供時代の記憶をたどれば…当時の新京極には大衆的なレストランがあり、スマートボールの店があり、ウナギ釣りの店があり、玩具店もあった。漢方薬の店のショーウインドウのガラスびんには生きたマムシがいた。映画の二番館や三番館があり、どこも三本立てを安く見ることができた。外壁に電球をいっぱいつけた封切館もあった。猛獣映画を封切り中の映画館の前に檻が置かれ、中に虎かライオンがいたこともあった。僕の記憶はどうも映画がらみになる。岡本氏の記憶がアルファベットの8番目がらみにどうしても傾きがちなのと、しかし大差はないのである。
 岡本氏が新京極で過ごした子供時代を語るとき、世代をほぼ同じくしているからだろうか、僕の心にも何か大切なものが生き返ってくる。とうの昔に忘れ去っていたもの、いや、忘れてしまっていることすら忘れていたかけがえのない何かが息を吹き返してくるのをたしかに感じるのである。だから、それを本に書きなさい、タイトルは「新京極の子」がいい。そう僕は言っているのだが、岡本氏ときたらいっこうに取り合ってくれようとはしないのである。



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