高瀬川・



「きらめく星座」
2013年11月29日撮影


 好きな女性アーティストというと、天才だった昔の松任谷由実、「風になる」の頃のつじあやの、若い頃でなく今現在の薬師丸ひろ子。
 男性となると山本正之しか思い浮かばない。
 僕が子供の頃はまだテレビがなく、ラジオの全盛時代。いつもラジオが流れていた。大人になりすぎた今も胸の奥深く残っているのは服部良一メロディの「青い山脈」である。その「青い山脈」を東京大衆歌謡楽団が巣鴨や浅草の商店街の路上で歌っている。「青い山脈」だけではなく、「東京の花売り娘」「


 どちらかといえばまばらな聴衆が前に置かれた帽子の中にお金を入れてくれるたびに、歌いながらでもきちんと一礼をするボーカルの高島孝太郎の姿勢に少し胸をうたれる。

未完


 僕が望むのは「消えゆくもの」ページに書いた「有楽町で逢いましょう」と「燦めく星座」を歌ってくれることだが、東京大衆歌謡楽団には「燦めく星座」のほうがずっとよく似合いそうな気がする。だからこの画像のタイトルも、「きらめく星座」。
(2014年5月  日更新)





「時は過ぎ来る流れくる」
2013年11月11日撮影

 「時は過ぎゆく流れゆく」の逆パターンといえる。。
(2014年5月13日更新)



「時は過ぎゆく流れゆく」
2013年11月29日撮影

 過ぎ去りゆく時の流れを秋の高瀬川の水の流れに重ね合わせて表現しようと試みた一枚。
(2014年5月10日更新)
 

「遠近法」
2010年12月3日撮影

 水が来た。水が押し寄せてきた。待ちわびた水である。乾いて干からび独特の臭気を発していた高瀬川の川面を浸し、積もった秋の落ち葉と塵芥を下流へと連れ去ってゆく水の流れである。
 水の気配は周辺の人々の胸をふるわせ、家から走り出て来て見守り見送る群衆のどよめきの中を流れてゆく。犬も駆け寄る。猫も出てくる。この瞬間、周囲はたいへんな熱気である。この様をなんと喩えればよいのであろうか。それは山尾悠子の短編小説「遠近法」において《腸詰め宇宙》内を太陽や月が通過してゆく際、壁際に無数に連なる回廊内に住まう人々のあいだにわき起こるどよめきざわめきに等しいといっても過言ではないのである。
 僕は目撃している。今まさに水が流れ来たるというこの一瞬を子供の頃から幾度となく目撃してきている。だがこの瞬間この一瞬には、そうたびたび遭遇できるものではない。通算してせいぜい十回くらいという少なさであろうか。僕といえど忙しく、左隣の画像でシルエットと化した人物のように、明けても暮れてもこの小橋の上に立ってデジカメを片手に日がな一日高瀬川を眺め暮らしているわけではないから、気がつけば止まっていた水がまたいつの間にか流れていたというケースがほとんどである。
 高瀬川の水は夏から冬にかけてよく止まる。そこにいかなる法則性があるのか、またないのか、それについて確とした説はない。月の満ち欠けが関与しているという説があり、自転する地球の傾斜の微妙なズレに起因するという説があり、また稲垣足穂の「一千一秒物語」のごとく宵闇のなか黒いシルエットの人物が電柱についたハンドルを回して月を昇らせるように川面の水を動く舗道式に回転させているという怪しげな説もある。いやいや、もっと実際的に京都市の役人が上流にある鴨川と高瀬川の境にある水門を操作しているという説もあり、あるいは降水によって鴨川の水がある一定量を超えるとコンクリートの仕切りを超えて高瀬川に流れ込んでくるという説もある。だが真偽のほどはいずれも定かではない。
 山尾悠子の「遠近法」において、太陽と月が無限の合わせ鏡に似た《腸詰め宇宙》内を日に一回通過してゆくその理由は語られていない。僕が高瀬川の迫りくる水流に遭遇して「遠近法」を想起してしまった理由も明瞭ではない。しかし、むかし京都に来てD大学に通っていたという山尾悠子ならば、山中貞雄のようにまさにこのあたりからではなく、もっと上流の繁華街の中にあるどこかの小橋の上から、高瀬川の水の流れや、水が止まって干からびた高瀬川の川面に目を落としたことがあるだろうし、また偶然にこのような瞬間に遭遇したこともあるかもしれない。だからといってべつにどうということもないのだけれど。
「SOMEONE TO WATCH OVER ME」
2009年10月5日撮影
 
 10月に入り仕事場の僕を何ものかが見ている気がした。それも人間ではない。動物である。それは匂いでわかる。一日の仕事を終えた僕が帰り際に事務をしているとき、そいつが僕を見ている気配を感じた。デスクの椅子に腰掛けたまま振り向くと、紙を積み上げたパレットの下の暗がりで小さなものが動いた。翌朝出勤してみると、僕に替わって事務をした形跡がある。その証拠にはデスク上にフンがある。かなりの臭気がする。はじめはネコを疑ったがネコではない。終業間際に迷い込んで閉じこめられたネコならば、翌朝僕が鍵を開けた瞬間に飛び出てきて逃げるはずである。逃げ出さないということは相手が多田製張所に住みつく気であることを示している。目星をつけたパレットの列を手前からハンドリフトでどけてゆく。いちばん奥のパレットの下部の暗がりを棒きれで突いてみた。柔らかい感触があった。その瞬間、茶色い動物が目にもとまらぬ早さで飛び出してきた。一気に壁面を駆け上がり、天井近くの壁際にわたしたパイプの上を超高速で駆け抜けた。なんたる早業、新幹線よりも速かった。尻から噴射したガスはすさまじい臭気である。
 そこで一計を案じる。簡単な罠である。デスクと椅子の背に厚手の大きなビニール袋の上端を片側ずつ布テープでしっかりと貼り付け、入り口(落とし口)をかなり狭く絞ったうえで、底に餌を置く。ペースト状の鶏のささみを団子にして、某ルートから入手した睡眠導入剤を中心部に仕込んである。帰りがけに仕掛けて帰ったら、翌朝かかっていた。始末をどうすべきか。配偶者に動物園と保健所に問い合わせてもらう。動物園は「持ち込みでなければ引き受けられない」、保健所は「死骸でないと引き取らない」とのこと。やむなく昼休みに鴨川の河川敷の草むらに放すことに決した。
 (→鴨川・秋「別れの曲」に続く)
 
「百年にとどく」 「百年にとどく」
2007年12月14日撮影

 あるところからとどいた資料をみて、多田製張所の創業が1913(大正2)年1月であることが判明した。2007年は94年目、2008年が95年目となり、2013年には創業100周年を迎え祝うこととなる。1913年といえば関東大震災はまだ起こっていない。2・26事件もまだである。三島由紀夫も鈴木清順も生まれていない。だが宮澤賢治や山中貞雄や小津安二郎は生まれている。花田秀次郎や風間重吉、菊池浅次郎や矢野竜子も生きていたはずである。
 創業者は僕の母方の祖父であろう。祖父は僕が幼稚園にゆく前に死亡したが、手を引かれて近所の夜店を歩いたこと、そこで売っていた思い出せそうで思い出せないささやかな玩具を買ってもらったことを記憶している。顔だって思い浮かべることができる。


未完。
「秋への扉」
2007年12月1日撮影

 多田製張所の扉の外に秋の世界がみえる。
 僕の生家跡であるこの場所へ僕の意思で仕事場を移す前、つまり元の仕事場は狭い路地の真ん中あたりにあり、入り口の扉のむこうに季節はなく、クルマがやっと通れる程度の幅しかない道を挟んで他家の入り口がみえるだけであった。私道に面した周囲の家の前には植木鉢が並べられ自転車が置かれ、クルマが植木鉢を割ったトラックが自転車を倒したなどの苦情を持ち込まれたものである。いろいろなことがあった。ひしゃげた自転車を担ぎ込んで来た人もいれば、こわいオバサンが何かを壊されたと怒鳴り込んできたこともある。タチの悪そうなやつが金をせびりに来たこともある。なかでも僕がいちばん困窮したのは、「孫が誕生日祝いに贈ってくれた花の鉢をクルマが引っかけて割った。運転手から詫びのひと言もない。どうしてくれる」というものであった。ただひたすらアタマを下げ続けるしかない。
 おかげでこんな人間になってしまった。

未完。
「季節のない路地」
「分岐点」 「分岐点」
2007年9月26日

 毎年、夏から秋への分岐点となる日がある。冬から春、春から夏、秋から冬への分岐点となる日もあるにはちがいないが、僕が意識するのは夏から秋への分岐点となる一日である。これは僕の実感でいうと、乗車中の電車が夏軌道から秋軌道に線路を乗り換えたような感触である。電車が線路を乗り換えたときに揺れるように、地球がガクンと揺れたのがわかる。地球は春夏秋冬の4つの軌道を乗り換えつつ運行しているからである。
 フェリーニの映画『青春群像』ではキャメラがガクンと動き出したことがある。ラストで主人公が早朝の汽車で町を去る。遊び仲間だった男はまだ部屋で眠りこけている。眠りこけた男をやや俯瞰気味に捉えたキャメラがガクンと揺れて横に移動を始めるのである。彼を置き去りにするように。彼を見捨ててゆくように。僕はフェリーニの過剰さが苦手でほとんど関心をもたないが、これは映画的表現の極致というものである。むかしある元映画監督と映画の話をしていて、彼が映画のテーマとストーリーにしか関心がなく、映画的表現というものにまったく無関心であるのに愕然としたことがあった。
未完
「新兵器再登場」
2006年11月17日撮影

 スーパー新兵器「バベル20号」(高瀬川・春→「新兵器登場」)の開発より一年と七ヶ月。仕事の合間にも寸暇を惜しみたゆむことなき研究を続けたすえ、「バベル15号」の製作についに成功した。
 2005年4月に試作した初号機「バベル10号」は安全ではあったが僕の求めるだけの高さに欠けた。続く2号機「バベル20号」は高さはじゅうぶんだが搭乗者ならびに周囲の群衆の安全性と移動時の騒音の二点において少なからぬ問題を抱えていた。パレットを20台も積み上げるとグラグラと不安定なうえ、ハンドリフトで昭和橋上まで動かそうとするとガラガラゴロゴロとうるさいのである。そこで考案されたのがパレットを15台積み上げた三号機「バベル15号」。高さの点でややもの足りなくはあるが、移動時の騒音をそれなりに抑えることができたのが成果といえばいえる。
 「バベル15号」に搭乗してみよう。仕事と研究に没頭するうちにいつのまにか夏が過ぎ秋が過ぎて冬も過ぎ、次の春が過ぎ夏も過ぎてあたりはすっかり秋模様である。桜の葉が紅葉して水面に落ち、高瀬川を彩っている。その情景を枝に残ったサクラの紅葉越しに目の当たりにするのは、「バベル15号」の開発者たる僕のみである。
「新兵器再登場」
「落葉アラベスク」 「落葉アラベスク」
2006年11月17日撮影

 昼休みに仕事場からパレットを一枚持ち出す。パレットとは紙などの荷物を載せる粗末な板張りの台である。持ち出したパレットのサイズは95×65センチ、高さは10センチである。これを画像右側のサクラの大木の横から高瀬川に下ろす。続いて僕が下りる。長靴は履いていないが、この程度の水量なら平気である。パレットを担いで水の上を歩くとボチャボチャバチャバチャと水音がする。川の中にパレットを敷く。その上に腹這いになる。落葉アラベスクの撮影開始である。
 春のサクラの時期にはきまってカメラマンらしき男や女が現れ、昭和橋の上に三脚を据えたり川岸からカメラを構えて時間をかけて撮影しているのを見かける。僕にいわせれば、あの連中がなぜ秋のこの時期にふたたびこの場所に出現しないのかが不思議である。満開のサクラなど誰でも撮影するだろう。だが僕には満開のサクラの花よりもこの時期のこのサクラの落葉のほうがずっと美しいと思われるのである。美意識の相違か、それとも落葉アラベスクを撮影するという発想自体を持ち合わせていないのか。落葉の時期の誰にも注目をされぬ高瀬川はひっそりと秋色を深めてゆく。
「日だまり」
2006年11月2日撮影
 
 高瀬川の水は鴨川の水である。このところの高瀬川は水の止まった状態が続いている。9月には流れが動いていたが、10月以降は少雨のせいだろうか、水が流れているのをあまり見たことがない。それでも11月ともなれば夏場に水が止まったときのように川底が乾いて臭気を発するまでにはいたらない。画像奥(南方向)の日だまりになった部分では川底が乾いている。だが両側から覆いかぶさるように樹木が繁って日陰となったこのあたりのわずかな水たまりでは、アメンボなどが精力的に活動を続けている。
 だがやがて、いや、ほどなくここに訪れるのは「落葉アラベスク」の季節である。
「日だまり」
「秋の夕日に」 「秋の夕日に」
2006年11月2日撮影
 
 切り通しをはさんだ隣家のKさん宅前にある樹木が夕日に映えている。この樹木の葉がこのような色に輝くのはこの時季なら夕方の4時前後である。この時間帯、高瀬川の東岸にあるこの樹のこの葉は、西からの夕日を浴びてこのような色に輝く。いまこの瞬間黒い人影が歩いている高瀬川の西岸からでは平凡な色の葉にしか見えないし、こちら側でも少し南寄りからでは光線のかげんで黒ずんだ色の葉に見えてしまうのである。日々時間帯を徐々に早めながら(ああ地球の公転よ!)特定の時刻にヤマモモの葉がこのように輝いて見えるのは、多田製張所の周囲のみなのである。まさしく紙の神が多田製張所にくだされし恩寵というべきであろうか。
 僕は神も仏も信仰していない。「神が人を造ったのではない、人が神を創ったのである」という説に心から賛同の意を表したい。だが神はこのような一瞬にこのような事物に宿ることもあるというのならば、べつだん否定するつもりはない。もっともその場合の神というのは、この地上のあらゆる既成の宗教の神では断じてありえないだろうが。 
「いつかは大魔神」 「いつかは大魔神」
2006年9月16日撮影

 雨の朝。出勤途上のことである。高瀬川岸の植え込みの中に見慣れぬものがいるのに気づいた。埴輪のレプリカ、すなわち変身前の大魔神である。
 じつは1980年に僕は大魔神の巨大な実物と対面したことがある。加藤泰監督が右京区太秦の大映京都撮影所で、事実上の遺作となった「炎のごとく」の撮影をしていたからである。
 僕はこの映画の撮影ルポを書くため、一日の仕事を終えたあと足繁く夜更けの撮影所に通ううちに、セットが組まれた深夜のステージ内部の壁際に何かがあるのに気づいた。数メートルはあろうかという巨大な大魔神像がひっそりとこちらを見下ろしているではないか。山里や小島の守り神がなにゆえこんなところでホコリをかぶり、手持ちぶさたに突っ立っているのかと思ったら、ここはなるほど1960年代後半に三本の『大魔神』シリーズを製作した撮影所であった。撮影が終了したとはいえ、ヘタに破壊しようものならたちまち憤怒の形相となって逆襲されるおそれがある。所長以下誰も手が出せなかったものと推測される。触らぬ神に祟りなし、か。こうして十四年の歳月をステージの片隅で生き延びた埴輪姿の大魔神は、加藤泰独特の大音声「オーイ、アイッ!」がステージいっぱいに響きわたるのを幾度となく見守ってくれたはずである。
 その後、大映京都撮影所は取り壊されて敷地は売却され、跡地にはマンションが建った。伊藤大輔や溝口健二や市川崑や三隅研次が活躍した撮影所の消滅によって「大映通り」の名称だけが残ってしまったけれど、そういえばあの巨大な大魔神像はその後どうなってしまったのだろう。撮影所の取り壊しにやってきた解体業者を懲らしめんと獅子奮迅、悪玉残らず踏みつぶす大暴れをしたというニュースはついぞ耳にすることがなかったではないか。
 でもこの『大魔神』シリーズ、あまりに素朴な勧善懲悪物語ゆえ僕にはなんの思い入れもない。
「バーニーズマウンテンドッグ」
2006年9月11日撮影

 仕事の合間に仕事場の外に目をやると、犬に散歩をさせている人がいる。僕は仕事場には通勤の身だから早朝のことはわからないが、ラッシュ・タイムはやはり夕方のようである。毎日のように観察していると、犬と飼い主のあいだの関係性がそれぞれに異なっているのがわかる。犬が人間を連れて散歩しているケースも多くみられるのである。
 藤林輝夫氏(65歳)とバーニーズマウンテンドッグのサリーさん(1歳半)。
 こちらのコンビは、さてどちらだろう?
 藤林氏は、元・新幹線の運転士さんである。それもいわゆるお召し列車の運転士を務めたという経歴を持つ運転士さんである。藤林氏によれば、お召し列車というのは、それぞれの駅の通過時刻に5秒以内の誤差しか許されないのだという。ペーパードライバー歴24年の僕には新幹線のことなど想像すらできないが、たいへんな技倆をお持ちなのであろうことはわかる。それだけではない。藤林氏の娘さんは新幹線の女性運転士第一号であるというからさらに驚く。F家には当時(三年前)マスコミの取材が殺到したようである。藤林氏は2006年8月26日の中日新聞・夕刊のコピーを僕に届けてくださったが、そこにも乗務に励む娘さんの姿が一面のトップ記事として取り上げられていた。
 藤林氏を僕に紹介してくださったのは、僕と同じ十禅師町で三宅産業を営む三宅康雄氏である。三宅氏が藤林氏のことを「真面目人間」と真顔で形容するものだから、どんな気むずかしい堅物なのかと僕はおそれを抱いていた。だがそれは杞憂にすぎなかった。藤林氏は画像でごらんのように規矩正しくも捌けた人物だったのである。
 このサイトの顧問である東京の長津氏に藤林氏の画像をメールで送信してみたところ、「藤林氏は、エエ顔をされてますな。晩節をまっとうされている人の顔でしょうね。ぼくも見習いたいところですが、なかなか」という返信メールが届いた。長津氏はそれ以前にも僕からF氏の話を聞かされて「しかし多田製張所の周辺には本当にエライ庶民が多いのに感心します。やはり京都だということが大きいのでしょうね」と伝えてきてくれたことがある。長津氏がいうのはたぶん京都の古い文化風土ということなのだろうと思うが、たしかにそういうことなのだろう。僕も高瀬川と鴨川に毎日触れて仕事をしていてそれは感じるのである。 
「バーニーズマウンテンドッグ」
「ラストシーン」 「ラストシーン」
2005年10月29日撮影

 映画はラストシーンからみてきた。
 より正確にいうと、エンドタイトルの出る20分くらい前からみてきた。20代の初めからずっとそうである。こうしてみるのがいちばんいい。余計な興奮に惑わされることなく、映画そのものを冷静にみることができる。映画をみてハラハラドキドキなんてしたくない。そんなものは日常生活でもじゅうぶんに体験できる。にもかかわらず、なにゆえにお金を支払ってまで映画館のくらやみの中でハラハラしないといけないのだろう。もちろんハラハラドキドキしたい気持ちがわからないのではない。だが僕はしたいとは思わない。それよりも、より純粋に客観的に、映画の魅惑に酔いたい。ストーリー上のサスペンスなどない方が映画が新鮮に目に映る。撮影者の構図のとりかたや監督の演出や美術家の感性や照明の深みまでみえてくる。これはこの世の中のヒミツのひとつに触れることにつながるのである。
 とはいえ最初からそうだったわけではない。僕が20歳ごろの映画館はどこも入れ替え制ではなかったから、前の回の上映途中から客席のくらやみにそっとしのび入り、客席の最後列の空間に立ち、映画が終わって観客たちが席を立ち始めてから、次回上映のための席を確保した。そしてそのうちに、ラスト部分を先にみておいた方が映画を新鮮に味わうことができることに気がついたのである。
 さて、この画像をかりにひとつの映画のラストシーンに見立ててしまうとするならば、クレーンに乗ったキャメラが徐々に上昇してゆく画に他なるまい。
『エアポケット』
2005年9月19日撮影
 
 この画像に添える文章はない。たまの空白区もまた佳きもの哉。
 
「エアポケット」
「雨、雨、雨」 「雨、雨、雨」
2004年9月24日撮影


 この雨はレイ・ブラッドベリの短編小説『長雨』の雨ではない。加藤泰の雨である。未映画化に終わったオリジナル・シナリオ『イカサマ師』のラストシーンの雨である。台本から引用してみよう。
「72 田中の家の前。
 路地を叩いて降る雨、雨」
 これはそういう雨である。たんに激しいだけの雨ではない。加藤泰その人の抑えた激情が抑えてなおほとばしるような雨である。加藤泰の映画にはいつもこんな雨が降る。例外は『緋牡丹博徒・お命戴きます』(1971年)冒頭の霧雨くらいなものだろうか。
 雨、雷鳴、風、雪。

未完
「宙を跳ぶ」
2005年11月27日撮影

 メガネをかけているからあまり気づかれないが、僕の左右の目は大きさが少し違っていて、左目の上にはかすかな傷跡が残っている。視力も右目より劣っていて乱視である。これは幼稚園に通うようになる前に、交通事故に遭った記念の痕跡である。
 自転車でやってくる紙芝居のオバサンのあとについて走っていた子供たちの中の僕が、このサクラの木からもう少し北へ行ったあたりで、後ろからやって来た二輪車に撥ねられたのである。その瞬間、僕は宙を跳んだ。ただし浮遊感覚や飛行の記憶はない。またこのときが最初で最後であって、以後宙を跳んだことはない。次のショットでは僕は抱きかかえられ、僕を抱きかかえた人は走っていた。まわりの子供たちも一緒に走っていた。抱きかかえられながら見た揺れる地面。悲鳴とも興奮ともざわめきともつかぬ子供たちの叫び声が今でも耳に聞こえる…。
 子供であった僕は事故の当事者が誰であるかを知らなかった。小学校から高校まで同じところに通った同級生、彼の亡くなった祖父であることを知ったのは、高校生になってからである。友人の母親によれば、彼の祖父はその事故以後、二輪車にまたがることはなかったという。
「宙を跳ぶ」
「裏か表か」 「裏か表か」
2004年10月16日撮影

 翻訳家・小笠原豊樹は、詩人・岩田宏の別名であるという。僕は十代の終わりから二十代のはじめ、小笠原豊樹の訳文でもってシオドア・スタージョンの短編集『一角獣・多角獣』を読み、ロス・マクドナルドの『ウィチャリー家の女』『縞模様の霊柩車』『さむけ』を読み、レイ・ブラッドベリの『刺青の男』『太陽の黄金の林檎』『火星年代記』を読むことで、SFやミステリの面白さを学んだ。『一角獣・多角獣』所収の短編『孤独の円盤』の一節を引用してみよう。
 「ある生き物には 言うに言われぬさびしさがある それはひどく大きなさびしさだから 生きもの同士で別かちあわねばならぬ それがわたしのさびしさである だから知るがいい、宇宙には あなたよりさびしい者が存在すると」
 「言うに言われぬさびしさ」の原文はloneliness unspeakableである。僕に言わせると、lonelinessを「孤独」ではなく「さびしさ」、unspeakableを「言葉にできない」ではなく「言うに言われぬ」というしなやかで濡れた日本語にしてしまうところが翻訳家・小笠原豊樹の魅力である。ただし小笠原訳が「生きもの同士で」という箇所でlesserという単語をとばしてしまっているらしい点が気にならないでもない。僕は翻訳のことはわからないからえらそうなことはいえないが、小笠原豊樹に翻訳された作品というのは翻訳というよりもむしろ、小笠原豊樹自身の「作品」になってしまっているような気がして仕方がない。僕はもちろんそれでもかまわないし、ロス・マクもブラッドベリもスタージョンもファウルズもドストエフスキーもプレヴェールも翻訳していることだから、小笠原訳世界文学全集を作ってほしかったと夢想している。
「いなくなった一家」 「いなくなった一家」
2004年11月8日撮影

 この枝の右側に多田製張所がある。何度も言うが、僕の生まれた家があった場所である。北隣の空き地は現在では保育園の所有(子供たちの遊び場)になっているが、僕が子供の頃は家があって人が住んでいた。両親と男の子二人の四人家族である。明るい一家ではなかった。どことなく暗い感じのする一家だった。オジサンは腰の低そうなどこか世の中に対して気兼ねしながら生きている感じの人だったが、二人の男の子は取っつきが悪く、僕はあまり口をきいた記憶がない。色白で、やせ型で、スカートをはいて、赤いセル縁のメガネをかけたオバサンは、よく家の前に立ってひとりで笑っていた。僕が家の前を通るとなぜオバサンがおかしそうに笑うのか子供の僕にはよくわからなかったが、そのうちに誰も通らなくても笑っていることに気がついた。
 今考えてみると、オバサンは当時三十歳代だっただろう。僕は鈴木さんの家にはよく遊びに行ったが(→歳事とくらし「ミサコちゃん」)、もちろんこの家の中に入ったことはなかった。町内の人も誰も入ったことがなかったのではないかと思う。
 この一家がいつ頃いなくなってしまったのか、僕にはわからない。たぶん小学校の低学年のときだったような気がする。一家がいなくなって、僕のうちが仕事上の倉庫代わりにこの古い家を借りることになった。家の中に入った僕は驚いた。家の内部は荒れ放題。家庭生活の痕跡など微塵もなく、とても人の住んでいた家、家族四人が暮らしていた家の内部とは思えなかったのである。僕はその驚きを誰にも話すことなくしまいこんだ。
 あの息子たち、彼らはその後どうしたのだろうか。隣の空き地の前を毎日通っても思い出さず、ふだんはまるで忘れているのに、ごく時たま何かの拍子にあの二人の暗い目つきがフラッシュバックのように甦ってくることがある。
「朝市」
2004年10月8日撮影

 僕が子供だったころ、この西木屋町通りには月に三〜四回程度、朝市が立った。といっても東寺の「弘法さん」や北野天満宮の「天神さん」のような骨董の店主体の市ではない。軒を連ねた露店のほとんどはビニールのテーブルクロスや普段着、荒物雑貨などの生活用品が中心で、今にして思えば粗末な品物だった。中にはお好み焼きやみたらし団子を商う店もあり、朝市での子供の楽しみといえばそんなところだったような気がする。
 今ここを通り過ぎて行く人に当時のにぎわいぶりは想像できないだろう。どこか小さな神社の祭りの日の参道くらいの人出に賑わったのである。それが1960年代半ばを過ぎた頃からだろうか、徐々に廃れだして、1970年代の初めには賑わいなどなかった。ぎっしりと並んでいた露店歯が抜けたようにまばらになり、手持ちぶさたそうな露店主たちが将棋に興じていた様を僕は目撃している。
 みんなどこへ行ってしまったのだろう、あの露天主たちは。またあれだけいたお客たちは。あのころを境にこの列島の社会が変貌してしまったのだろうか。戦後という時代がついに終わりを告げてしまったのだろうか。
「朝市」
「高瀬川岸の秋を愛す」 「高瀬川岸の秋を愛す」
2004年11月26日撮影

 正面橋に立って南を眺めている。むかって左が東木屋町通りで、町名は十禅師町。右が西木屋町通りで、町名は八王子町である。この画像では見ることができない二つの町内の間を高瀬川が流れる。高瀬川に沿って、じつにたくさんの木が茂っている。サクラ、モミジ、ヤナギ、カエデ、あとはなんだろう…。1929年生まれの澤田商店の澤田義春氏によれば、戦前にはサクラとモミジが交互に植えられていて、氏が子供だった頃は川岸は現在のような石垣ではなく木の杭が打ち込まれていたという。
 じつのところこのあたり、詳しくいうと五条通から七条通りにいたるまでの約七百メートルの区間が高瀬川でいちばん美しい場所なのではないかと僕は考えている。僕のいう「美しい」とは整備されたという意味ではない。観光化されたというのではない。ライトアップが施されたというのではない。そんなところならどこにでもある。高瀬川でも五条通を少し北へ行くと川の中に投光器が設置されているのに気がつく。それはそれでいいだろう。ライトアップもそれなりの人工的な美しさは醸し出す。だが僕のいう「美しい」は、必要最小限以上の整備がなされていないという意味である。生活と分かちがたく結びついた風景が(たまたま?)保全されているという意味である。風景の中に人の暮らしが感じられるという意味なのである。
 『ゲイルズバーグの春を愛す』という短編小説をずっと前に読んだことがある。1995年に亡くなったアメリカの作家ジャック・フィニィの代表作のひとつである。舞台はゲイルズバーグというアメリカの地方都市。その古い街並みが破壊されようとするたびにどこからともなく過去の遺物(昔の消防馬車とか、とうに撤去されたはずの路面電車など)が出現して開発業者を追い払い、古い街並みを守って、近代化を阻止するという物語である。もちろんフィニィの小説世界とは違って現実世界の高瀬川にどこからともなく消防馬車が出現してくるなどありえないことである。だがかりに出現したとしてもべつだん不思議ではない気が僕にはする。ポツリポツリと新興のマンションが立っている(これは撮影の邪魔である)とはいうものの、ここには昔ながらの古い町内会組織や、体育振興会や、老人会や、地蔵盆やお祭りの飾り付けなどの地域的慣習がまだ生きているからである。


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