高瀬川・

高瀬川は鴨川の西側を寄り添うように流れる小運河である。
鴨川と同じように、五条通から七条通にかけて
僕の子供時代の姿を色濃く残している。
樹木と草花の高瀬川をご覧にいれよう。





「桜花流水」
2014年4月6日撮影

 当日ハ日曜日ニテ、朝八時前、吾、戸ヲ開ケ、周囲ヲ見回シ、人影無キヲ見計ライテぷらったーニ乗リ、高瀬川ニ架カリテ眼前ニ見ユル昭和橋マデ出撃ス。速ヤカナル作戦遂行ノ後、車両等ノ通行ヲ入念ニ確認シツツ東木屋町通リヲ横断、多田製張所ヘ無事帰還セリ、凱旋セリ。高瀬川ノ桜ハ嗚呼美シキカナ。
(2014年5月14日更新)



「藤とお花見(続・井川徳道氏)」
2014年3月31日撮影

 嵐山は渡月橋の近く、住宅街の中にある井川さんの家を初めて訪ねたのは、1985年の秋頃であったと記憶している。
 目的は原稿の依頼。同年6月に亡くなった加藤泰監督の追悼本として北冬書房が企画していた「加藤泰の映画世界」に文章を書いてもらうためであった。
 加藤泰が東映京都撮影所で撮った代表作にはかならず名シーンがある。「風と女と旅鴉」の庄屋の家の裏庭、「真田風雲録」の冒頭の夢幻的な関ヶ原の戦場、「車夫遊侠伝 喧嘩辰」の未明の大阪・渡辺橋、「明治侠客伝 三代目襲名」の中之島・蛸の松、「沓掛時次郎 遊侠一匹」の夕暮れの土手道、そして「緋牡丹博徒 お竜参上」の今戸橋と凌雲閣、それらのセットすべてを作ったのが井川徳道という美術監督で、原稿依頼もさることながら、僕にとってこれはその人の顔を見る絶好の機会であったといえる。
 初対面の井川さんは恐かった。小柄でやせ型でどちらかといえば顔立ちは柔和なのだがそれでも恐かった。就職試験というのを一度も受けたことのない僕が、まるで面接官から最終尋問を受けているような緊張を強いられてしまった。そういう厳しさであった。
 井川さん宅の玄関脇、降旗康男監督・高倉健主演の「冬の華」に出てくる絵画が掲げられた客間でその時話したのは、「冬の華」の美術のこと。「「冬の華」の美術をどう思いますか」とさりげなく、ニコリともせず問いかける井川さんはあきらかに僕の力量、映画美術を見る目を量っていた。繊細なようでいて図々しい僕も初体験の就職試験・最終面接の緊張感にしどろもどろになり、面接官の満足のゆく答えはできなかったと思う。他に井川さんが話したのは蔵原惟膳監督・仲代達矢主演の「道」のロケハンに近々出かけなければならないこと、この映画は高倉健主演で企画されたが断られたために仲代達矢に替わったこと、このような場合は企画自体をボツにすべきであること、などである。加藤泰と加藤映画に関しては原稿依頼以外には話が及ばなかったのには不思議な気がしないでもないが、場の雰囲気がそれを許さなかったのだろうと思う。。
 それから約三十年後の現在、現役をほぼ引退された井川さんはときどきうちにまで足を運んできてくださるようになった。その間にはある事情から井川さんと頻繁にお目にかかるようにもなり、ありとあらゆる話(おもに映画)ができるようにもなったが、井川さんはたった一人のご子息(井川さん以上に真面目な人であった。上には上があるものである)を亡くされ、かつては華頂女子短期大学の名物教授であった夫人も亡くされてしまった。東映京都撮影所・美術センターでは助手さんたちから〈鬼〉と畏怖された井川さんも、僕が足繁く通うようになった頃には〈仏〉に変わっておられた。井川さんにいわせれば、もう諦めたのだという。
 しかしこの画像…。井川さんはイヌが苦手だったはずである。井川さんに直接訊ねたわけではないが、いまでは東映京都撮影所にいない井川さんの助手さんたちから聞いたところでは、井川さんは子供の頃にイヌに噛まれたところがあるらしく、昼食時に所外を歩くときでも井川さんが一緒の時はイヌのいる家の前はあえて通らないのだということであった。でもそれも1990年代の古い話であって、いま現在うちの藤とはご覧のとおり。藤も井川さんにはなついている。藤という名前が1960年代の後半から70年代の初めにかけて東映京都撮影所で井川さんとよく仕事をした女優の藤純子に由来するものだからであろうか。
 いや、とはいいながらこの画像、井川さんと藤との間には微妙な距離感がある。どこかぎこちない空気が感じられるような気がしないでもないのである。
(2014年5月5日更新)
 


                 

「井川徳道(いかわのりみち)氏」
2014年3月31日撮影

 井川徳道氏。1929年京都市生まれ。映画美術監督。
 1958年「江戸の名物男 一心太助」でデビュー以後、1999年の「残俠」まで東映京都撮影所の美術監督(プロダクション・デザイナー)として130本にあまる映画を手がける。
 主な作品に、加藤泰監督「風と女と旅鴉」「真田風雲録」「車夫遊侠伝 喧嘩辰」「明治侠客伝 三代目襲名」「沓掛時次郎 遊侠一匹」「懲役十八年」「緋牡丹博徒 お竜参上」、沢島忠監督「一心太助 男の中の男一匹」「暴れん坊兄弟」「殿様弥次喜多」、工藤栄一監督「十三人の刺客」、小沢茂弘監督「傷だらけの人生」、深作欣二監督「柳生一族の陰謀」「県警対組織暴力」「北陸代理戦争」「魔界転生」、中島貞夫監督「序の舞」、降旗康男監督「冬の華」などがある。
 「緋牡丹博徒 お竜参上」で1970年度、「序の舞」で1983年度の日本映画技術賞・美術部門を受賞。
 2014年4月1日より20日までの三週間にわたり、府立京都文化博物館・フィルムシアターにおいて特集上映「京都の映画美術 映画美術監督・井川徳道の世界」が催され、期間中、とくに昼の部は連日満席の大盛況、上映終了後のロビーには井川氏のサインをもとめる人々の行列ができたという。

 ところで、さきの主な作品、これは僕の選択によるものであって、井川氏自身の選択とは微妙なズレがないとはいえぬ。とはいいながら、今回の上映作「夢千代日記」「序の舞」「祇園祭」「風と女と旅鴉」「緋牡丹博徒 お竜参上」「浪花の恋の物語」(クレジットされていないが鈴木孝俊氏と共同)「家光と彦座と一心太助」「柳生一族の陰謀」の八本だけでは、井川美術の魅惑を存分に披露しきれたとはいいがたく、次の機会には上記の作品が一本でも多く含まれることを願うのである。
(2014年4月25日更新)





「鳥の歌いまは絶え」
2011年4月23日撮影

 紅いツバキの花の浮かんでいる場所が高瀬川ではない。これは雨の夕刻、高瀬川岸つまり木屋町通りにできた水溜まりであって、高瀬川はこのすぐ左側にある。水溜まりが川のようにみえるのは僕がデジカメを水面上15ミリというローアングルに据えているからである。最初は無理をしてファインダーを覗いていたのだが、たちまち顔の左半分が水没してびしょ濡れになってしまったため、不本意ながら液晶モニターにお縋りして撮影することとなった。
 この先にみえる…そう、いまちょうどタクシーが通りかかったところが正面通りである。昭和の初め頃には十代の山中貞雄がすぐ近くの河原町正面の停留所から京都の市電に乗るために毎日ここを歩いた正面通りである(→高瀬川・冬「山中貞雄少年の家」)。その正面通りを越えたあたりに異国人向けの和風旅館があり、照る日も曇る日も雨の日も雪の日も多種多彩な民族が一人で、二人連れで、三・四人で、あるいはそれ以上の集団で行き来をすることから「地球の十字路」と僕に名付けられた木屋町通りの正面小橋界隈であったが、この三月中旬以降は宿をめざして北へと歩く異邦の人々の影もまばらになり、サクラの時季には山から里へ下りてきてこの川沿いの枝々の上で春の到来を謳歌したメジロやウグイスの歌声もいまは絶え、雨降る夕刻の濡れた通りをゆくのは小型犬を連れた女性の後ろ姿のみである。
(2011年4月27日更新)




「逆転世界」
2009年4月8日撮影(東木屋町通りの住人には夕陽が見える之図)

 僕は、京都市下京区木屋町通り正面下る十禅師町203番地の生まれである。
 十禅師町は東木屋町通りに面した家並みである。東木屋町通りというのは高瀬川に面した東側の通りであって、高瀬川をはさんだ西側には西木屋町通りがある。つまりこの一区画では、高瀬川を中心軸にして両側に同じような道路と同じような家並みが向かい合っていることになる。
 僕のように東木屋町通りに生まれるとどうなるか。太陽は朝、背後から昇って、夕刻、真正面に沈む。朝陽は見えず夕陽が見える。七条通りは左にあり、五条通りは右にある。京都駅へ行くには左方向へ歩く。ところが向かい合った西木屋町通りに生まれると、太陽は朝、真正面から昇って、夕刻、背後に沈む。朝陽が見えて夕陽は見えない。七条通りが右にあり、五条通りが左にある。京都駅へ行くには右方向へ歩く。東木屋町通りの住人と西木屋町通りの住人とでは、互いに高瀬川を軸にしてクルリと180度回転した《世界》に住んでいることになる。いわば生まれながらにして逆転世界の住人なのである。西木屋町通りに生まれ育った人の目に、この《世界》はどのように映っているのだろう。僕にはこのあたりまえのことが子供の頃から不思議に思われてならぬ。東木屋町通りに生まれて暮らす人間と西木屋町通りに生まれて暮らす人間の見ている《世界》は同じなのだろうか。互いに共通の世界だと認識して疑いもせずに暮らしているこの《世界》の見え方が、いや《世界》そのものがほんとうはまるっきり違っているのではないだろうか。
(2011年5月28日更新)



「招きネコ」
2009年3月28日撮影

 この情景はあの恥ずかしいJR京都駅の建物から徒歩で約10分程度の距離、七条通から高瀬川の南をながめると目にすることができる。僕は七条通の道路と一体化した小さな橋の上からこれを撮っている。七条通に面した橋の右手には大きなワンルームマンションが建っている。かつてここには商人宿があった。七条通に面し、道路よりも低い位置にあった。石段を下りなくても商人宿の玄関部分がよく見渡せた。商人宿の東側はそのまま高瀬川で、高瀬川から上がるための石段の名残と思われるものがあった。僕などが生まれるずっと前の高瀬川はもっとずっと深く高瀬舟が通っていたというから、このあたりが船着き場になっていたようである。と、ここまで書いて茫然自失。このページのずっと最初のほうの「駅前旅館」の前半部と同じことをまた書いているではないか。僕が青年だった頃に加藤泰監督があちこちの集まりで同じような話をくりかえすことに不思議な気がしたものだったが、なるほどこういうことであったか。
 この商人宿の玄関に招きネコが置かれていたかどうか、記憶はない。




「サーバー」
2009年3月30日撮影(画像には何ら手を加えていないが、あきらかに撮影時の空の色ではなく、コンタックスデジカメの気の迷いと推測される。)

 石井輝男監督「ポルノ時代劇・忘八武士道」のセット撮影現場をながめたことがあるのはおそらく僕くらいのものだろう。ながめたのはクライマックスの直前、阿片に冒され体の自由を失った丹波哲郎が女忘八たちを次々と斬ってゆくシーン。いかにも低予算の映画らしく、東映京都撮影所の大きなステージ内部の暗がりの片隅に、明日死能の部屋のセットが小さくひっそりと建て込まれていた。丹波哲郎がグラスの赤い液体を飲み、場末のヌード劇場ふうの色つきセロファン照明がスタッフの手で回されるなか、石井輝男監督が「ハイ、ひし美チャン」と小声で言うと、ひし美ゆり子がハラリと着物を脱ぎ、前貼り一枚の裸体のまま丹波哲郎に斬られてしまった。今となっては僕がアンヌ隊員のファンでなかったことが惜しまれてならぬ。「見学禁止」の札が掛かっていたことに気づいたのは、見学者もなくひっそりとした撮影現場から平然とステージの外に出た後のことである。
 当時、二十代初めの僕は石井輝男映画にも魅了されていた。僕が中学・高校生のときに公開され異常性愛路線と呼ばれた「徳川女系図」に始まる一連の作品群こそ見ていないが、小学生では講堂での授業の一環として新東宝時代の「スーパージャイアンツ」シリーズ中の一本(おそらく「鋼鉄の巨人」か「続鋼鉄の巨人」)を、20歳を過ぎてからは女侠映画の変種である「緋ぢりめん博徒」「やさぐれ姐御伝・総括リンチ」を、封切館での再上映では念願の「網走番外地・望郷篇」「網走番外地・北海篇」を、その後はふたたび高倉健と組んで期待はずれの「現代任侠史」「大脱獄」、さらには千葉真一主演のギャグが泥臭い「直撃!地獄拳」シリーズくらいまでを劇場での新作として観ているが、新作で僕の心を揺るがしたのは「緋ぢりめん博徒」のみである。時系列的にはやや前後するがそういう中で「ポルノ時代劇・忘八武士道」のセット撮影をながめ、「現代任侠史」もクライマックスシーンのセット撮影をながめているのである。ちなみに後者のほう、東映京都撮影所の第一ステージに建て込まれた辰巳柳太郎の屋敷の内部、大きな庭の見える座敷のセットには内田吐夢作品の美術監督をつとめた鈴木孝俊らしい積年の風格が感じられ、その片隅では撮影の合間に辰巳柳太郎が石井輝男にむかって若林豪という新国劇の新人の話をしていた。
 ところが今の僕には石井輝男映画の面白さがわからない。「網走番外地」シリーズのどこが面白かったのかが思い出せない。番外地の前に高倉健と組んだ一連のギャングシリーズの面白さをDVDで初めて観ても理解不能。とりわけ石井輝男が脚本も兼ねたオリジナル作品の人間像の軽さ安さ薄さには、これが面白いと言っている人の感性が理解できないでいる。これはどうしたことだろう。ワンカット同士がせめぎ合う加藤泰の映画やカットの中抜きが技巧的な三隅研次の映画はむかし観たときもいま観てもいつ観ても面白さがわかるのに、石井輝男の映画はどうして空疎としか思えなくなってしまったのだろう。
 ジェイムズ・サーバーに犬の親子を描いた文章があって、犬の親子というのはある時をさかいに相手のことがわからなくなるという。まるで自然の摂理のように母親は子供が子供には母親がわからなくなるという。
 なにかそれに似た力が僕に対して働いた…ことにしておくと丸くおさまる。
(2011年6月16日部分改訂)




「季節はめぐる」
2008年5月11日撮影

 今年もまた地球はめぐり季節もめぐってお祭りの日となった。5月の第二日曜日である。そろそろ夕刻に近い午後、高瀬川沿いの西木屋町通りを新日吉(いまひえ)神宮のお祭りの行列が南へむかってゆく。このお祭りの行列を僕は子どもの頃から何度も見ている。いまになってはじめて気づいたのは、この行列がどこの地域ででも見かけるような、自己燃焼型の熱気はあるが気品のない行列ではないということである。この行列には「わっしょい、わっしょい」の掛け声もなく鳴り物もなく、ただ「ドーン。ドーン」という大太鼓の音が響くだけである。家の中にいてもその響きで行列が近づいてきたことがわかる。おもてに出てみても、行列は沈黙のまま粛々と通りすぎてゆくのみ。聞こえるのは見物人のざわめきと私語。僕の子ども時代の記憶との違いは、馬に乗っていたはずの宮司がいまでは人力車ふうの乗り物に乗っていることである。
 むかって右側の川沿いに見える山車、これは行列に参加しているのではない。古びて使われなくなった山車であろうか、お祭りの日になるとどこからともなく出現して、まだお祭りの行列が通らない朝、毎年この町内の人々がこの通りだけをささやかにたのしそうに曳いて歩くさまを見かける。そして祭りの日が過ぎるとたちまちどこかへしまい込まれるらしく姿を消してしまう。そのさまがいかにもつつましくてうらさみしくて、僕の胸をうつのである。



「春の匂い」 「春の匂い」
2008年3月21日撮影

 はじまりは野田昌宏氏であった。
 1960年代末、野田氏はパルプマガジンの研究家として雑誌『SFマガジン』に「SF実験室」を連載するかたわら、翻訳家としてエドモンド・ハミルトンの『太陽系七つの秘宝』『時のロストワールド』などをハヤカワミステリと同サイズのハヤカワSFシリーズから刊行していた。だが野田氏にはもうひとつの顔があり、本名の野田宏一郎のほうではフジテレビの社員ディレクターとして、当時の人気番組『ちびっ子のどじまん』を手がけていたのである。
 1970年夏に大阪府高槻市民会館で番組の全国大会の収録があり、僕はノコノコと出かけてゆく。会場で活躍する若き野田ディレクターはズボンのお尻の部分がなぜか破けていて、ステージ上で審査委員長である古賀政男にお辞儀をするたびにチラリと白いものがのぞいた。忘れ得ぬ情景である。 
 その翌年になって野田氏が映画界を結婚引退する藤純子の引退記念ドラマをフジテレビで製作することになり、撮影は京都なのでこの僕を一番下の助手として使ってくれるという。ところがその番組の企画自体が消滅してしまった。僕が加藤泰監督の東映任侠路線映画を野田氏の連載や翻訳と同じくらい愛していることを知っていた野田氏は、東映京都撮影所の宣伝課長氏に電話をかけてくれた。僕がなにくわぬ顔で東映京都撮影所の門をくぐれるようになったそもそものきっかけは野田氏が作ってくれたのである。その後僕は心の舵をその東映京都撮影所のほうに大きく切り、野田氏はやがてフジテレビを退社して日本テレワークの設立に参画し、のちには社長となる。その以前に、いやそれと平行して野田氏がハヤカワ文庫でくり広げたE・ハミルトンの多数の翻訳も、「銀河辺境」シリーズの翻訳も、「銀河乞食軍団」という野田氏自身の書き下ろしシリーズも僕はほとんど読むことがなかった。
 いまも思い出すのは世田谷区上用賀にあった当時の野田氏のマンション周辺の夜の空気の匂いである。夜遅く渋谷からバスに乗り、グレラン薬品前という停留所で降りて野田氏の住居を探してアートコーヒーの建物付近を迷い歩いた春の夜の空気の濃密な匂いである。この辺りのどこかに野田氏の住まうマンションがある。もうすぐそばまで来ている。そう思うと胸が高鳴った。それは野田氏が、20歳の僕が初めて出ていった東京で初めて訪ねた人物であったから、未知の東京でのただひとりの顔見知りの人物であったからにちがいない。驚いたことにはあれから三十年以上の年月が経過している。
 このたび僕の私生活に変化があり、それを知らせるべく手紙を出した。だが野田氏はあのエレベーターのないマンションの4階の住居からは転居してしまったらしく、手紙は戻ってきた。それでもどうにか転居先をつきとめて電話をかけた。何度かかけたが誰も出なかった。そこでふたたび手紙を出そうとした。
 だが、野田氏の訃報のほうが早かったのである。


「雨の花」
2008年3月14日撮影

 そういえばもう長いことあの老女の歩く姿を見ていない。晴れた日は日傘、雨の日には雨傘として、壊れかけた傘を開いて毎日歩いていたあの老女である。いつか高瀬川・夏ページに「日傘雨傘」としてズームで撮った後ろ姿の画像をアップしたことがあった。いつもひとりで何ごとかつぶやきながら、朝に一度多田製張所の前を行きすぎてゆき、昼時には古ぼけた鍋を抱えて足どり重く歩いていた。昼休みに自転車で大島さん宅前を通りかかったところ、たむろしていた野良猫たちが何かを見て揃って駆けだしたと思ったら、高瀬川沿いの道と交差する正面橋を越えた北の方から、鍋を抱えた老女が大儀そうにこちらへ向かってくるのが見えた。
 昼食を済ませた帰りに僕がまた通りかかったら、昼でも暗い奥まった一軒の廃屋前のジメジメとした土の上に老女の鍋が置かれ、ネコたちが群がっていた。それに気がついてみると、鍋は毎日のようにそこに置かれていることがわかった。まことにネコは正直である。
 だがその廃屋も解体されて新しい家が建つらしく土台が構築され、それに呼応するように、いやそのずっと前からだろうか、老女が歩く姿もまるで見かけなくなった。あの老女の古びた傘が高瀬川に沿った木屋町通りの雨の中に咲くことは、おそらくもうないのだろう。
「雨の花」

「今夜限り世界が」 「今夜限り世界が」
2007年4月3日撮影

 4月に入るや仕事が突然ヒマになった。超のひと文字がつく零細自営業者としてははなはだ不安である。電話もかからなければ来客もなく、ひょっとしたら地球上でうちだけがヒマなのではないかという疑念がムクムクと湧き上がってくる。みじめな気持になる。多田製張所ももはやこれまでか…という絶望が頭をもたげはじめる。
 いやまて。ここはレイ・ブラッドベリの短編小説『今夜限り世界が』の中なのかもしれぬ。いやむしろ大島弓子の『サマタイム』の中であろうか。いやちがう。もっと近いのがあった。押井守監督の映画『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』的世界の中である。そう思うと不思議に心が安らぐ。世界中の人間がどこかへ姿を消し、多田製張所だけが地球上にポツンと取り残されてしまったからには、電話も来客もないのは当然のことではないか。
 そうあきらめて引き戸を開けて出てみたら、外の世界はそしらぬ顔で存在していた。のみならず、高瀬川の向かい側を少し北へいったところにあるサクラの木が部分的に夕日に照り映えて存在を主張していた。
 多田製張所がヒマであろうがなかろうが、人類が滅亡してしまおうがしまいが、オジサンが自転車で走ってこようが走りすぎようが、通りがかりの中年夫婦が足を止め二つの黒い人影となって見とれてしまうほどに、世界は美しいようである。
「木橋に春が」
2007年3月15日撮影

 仕事場の周辺にあるクリーニング店のすぐ近くの木橋にも春が来た。この木橋、根っからの橋ではない。苔むした側面に穿たれた長方形の穴から察するに、どうやら元はどこかの古い家の建材であったと思われる。それが廃材となってここに架けられたものなのだろう。実態は不明だがそういう想像はできる。
 子供の頃から数えると、僕は幾度この木橋を渡ったことだろう。一度も落ちた記憶がない。猿は木から落ちても僕は木橋から落ちないのである。
 ただし怒られることはある。この画像を撮影するために川岸ギリギリのところまで踏み込んで木橋にデジカメを向けていたら理髪店の奥さんが出てきて「植木を踏まんといて。あなた、この前も…」と叱られてしまった。それはすみません。僕の足元にあるこの草…植木だったのですね。僕はてっきり雑草だと思っておりました。
 植木と雑草の区別は猿と人の区別よりも困難である。
「木橋に春が」
「刻印」 「刻印」
2007年3月14日撮影

 今日も仕事を無事終えて帰宅するべく京都駅めざしてフワフワと歩いていたら、向こうから自転車でやって来た50歳代のオバサンから親しげに「コンニチワ」と声をかけられた。知らないオバサンである。人違いかと思って無視してやり過ごしたものの不審に思って振り向いてみると、相手は自転車の上から僕を振り返ってまだニコニコしている。明らかに僕を知っているという素振りである。だが僕にはオバサンの友人はいない。
 不思議に思って古代地層を探るうちに思い当たった。確信はないが…あれはたぶん僕が高校生の時、僕の中学時代からの知人と付き合っていた一学年上の女性ではないだろうか。その後その男と結婚したらしいが、僕とは縁が切れてしまったのでなにも知らない。僕は心が暖かいわりには薄情な面もあり、能動的であれ受動的であれひとたび縁が切れてしまうと街で偶然見かけても知らん顔で通り過ぎてしまう。儀礼的な会話の白々しさが性に合わないのである。
 それにしても…地球歴に換算して35年は経過している。その間一度も会ったことがないというのに、なぜむこうは瞬時に僕を判別できたのだろう。小柄でスリムなところはなるほど変わらないが、肩幅はグンと広くなり、帽子をかぶって丸いメガネをかけ、BREEの皮のリュックを背負っている。怪人二十面相ばりの変装とまではいわないが、今のほうがずっと可愛いことは僕が請け負うし、ましてや額に多田マークが刻印されているわけでもないのである。ただし中身だけは世にも貴重なくらい、いや嬉しくなってしまうくらい変わっていないから、そのあたりをパルス探査されてしまった可能性は否定しきれるものではない。
「暗いトンネル」②
2007年3月11日撮影
 
 二条ー円町間はほんの三分ほどの短い区間である。そのわずかな時間に僕が山陰線の電車内で目撃したのは、少なく見積もっても約十年ぶりということになる。初老というべき年齢に到達していたことよりも僕の目を惹いたのは、顔が別人のような渋面に変わっていたことであった。
 後に漏れ聞いたところでは、ずっと年下の女性と結婚したものの夫人が借金をつくり、会社にまで業者が押しかけるようになり、母親と暮らしていた家まで失ってしまったという。おさだまりというならいうしかない話である。それにしても年若い女性と結婚したという事実は僕の想像を絶していた。
 その噂を耳にした後、もう一度だけその人を見かけたことがある。やはり二条駅から下り電車に乗ってきたのを車内の離れた位置から目撃している。僕がかつて顔見知りだった人を往来や車内で見かけても安易に声をかけることをしないのを差し引くとしても、出口の遠い暗いトンネルにむかい僕がかけるべき言葉はそのときもなかった。 
「暗いトンネル」
「花の記憶」 「花の記憶」
2006年4月11日撮影 

 2006年のサクラの記憶が僕にはない。この時期いろいろとタイヘンだったためだろうか、この春のサクラの印象がまるで欠落しているようである。だからこのコマで他にいうべきことは何もない。これで終わる。
 空きスペースを埋めるべく時を超え、2007年の文章にワープしよう。


「暗いトンネル」①

 厳しい顔をしている、と僕は思った。いや、険しい顔といった方が的確かもしれない。日曜日の夕方、仕事帰りの山陰線下り電車内で見かけた初老の男性の顔である。その人は京都駅から二つめの二条駅から乗車してきた。僕が降りるのは三つめの円町駅である。だから一区間しか同じ電車に乗り合わせてはいない。
 男性は僕の見知らぬ人ではない。得意先の会社に数年前までは在籍していたはずの人である。多田製張所へしばしば現れたのはそれよりずっと以前、十五年も二十年も前のことになる。会社の指示で僕に加工納期を伝達しようとするが、年下の僕に四の五の言われて立ち往生するような人、温和で優柔不断な側面のある人だった。「○○さんは、なぁ…。あの人は親に大事にされすぎはったんやわ。」という声が社内での定評を代弁していた気がする。だがそこに悪意は含まれていない。それがいつの頃からか会社のトラックのドライバーとなり、黙々と印刷物を配送する仕事を担うようになり、いつか姿を見なくなってしまった。僕がそのことをさして気にとめなかったことはいうまでもない。
「アールデコの橋」 「アールデコの橋」
2005年5月8日撮影

 始業のチャイムが鳴る。高瀬川を渡っての登校である。ここは旧土佐藩邸跡に建てられた京都市立・立誠小学校の跡地。統廃合によって廃校になっているから跡地である。毎日ここへ通っていた小学生どもはそんなこと気にもしちゃいなかったろうが、これはシャレた小橋である。シャレたでは言葉が軽ければ、これはモダンで優美な小橋である。こんなアールデコ調の小橋が高瀬川にかかっているというところに味があり、この建物が小学校だというところがなんともうらやましい。ただし西側には京都の繁華街である河原町通り、北と南にはサロンや飲食店街、東は木屋町通りと先斗町。つまり歓楽街のど真ん中に位置していることになる。もっとも僕の通った菊浜小学校なんて五条楽園という旧遊郭のはずれにあったのだからべつに驚きはしないけれど。
 以下は小学校にまつわる苦い記憶である。
 入学式当日、式が終わって教室へ。まず席を決める。隣の席にすわったのは○○さんというかわいい子だった。目がハート型になって胸ときめかせたのもつかの間、同姓の別の子の間違いであることが判明。あまりにはかなかった幸福。これから始まる不幸な運命を予感した。一年生のとき、××君に頼まれてお金を貸した。すぐに彼のお姉さんが家までとんできた。利息はとってないぞ。二年生のとき、豪雨の中を下校中、車道脇の水たまりをジャブジャブ歩いていた。下水口の蓋がはずれていてズボッとはまり水中でもがいた。水面が頭上にあった。よく溺死しなかったものだ。三年生のとき、これまた下校中。見知らぬ大人からいきなり声をかけられ、誘拐犯と思いこんで必死で走って逃げた。あれは誰だったのだろう? 四年生のとき、何かの発表で「△△君に叩かれて病気になった」と真顔で発言したらクラス中が大笑いになった。先生も笑っていた。五年生のとき、給食時間に保健室の先生が飛び込んできた。ジャムの袋にベアリングの玉が混入している可能性があるという。「はい、これ」と金属の小さな玉の混じったジャムの袋を差し出したらみんな驚いた。リンゴジャムが苦手だっただけである。六年生のとき、担任の女教師(30歳。既婚)が気に入らなかった。むこうも僕を理解できなかったようだ。図工の時間、誰かが桃色の絵の具を塗っているのをみつけると「やめて、そんな赤ちゃんがチューインガムをはき出したみたいな色!」とよく叫んでいた。それはあんたのセーターの色だろうが!
 さてこの画像の学校、また復活するという話もあるらしい。だが僕は小学校になんか二度と通う気はない。
「ヘンダースン夫妻」
2005年4月30日撮影

 4月というのに今日は初夏のような陽気である。
 暑くなってくると高瀬川に面した入り口の戸を開けはなして仕事をしている。僕はいつも入り口に背を向けて仕事をしているが、人や乗用車やトラックがうちに来て高瀬川の方をふりむくと色鮮やかな新緑が目に痛いほどである。その中を外国人たちが歩いている。外国人が歩いているのを見ない日がないくらい、歩いているのである。僕は内心ここを国際通りと名付けているほどである。これは高瀬川沿いにもっと北へ行くと外国人専用の安い旅館が二軒ばかりあり、しかもJR京都駅から徒歩で約15分の距離にあるからだろうと思われる。僕の仕事場は高瀬川沿いの切り通しの角にあって、しかも戸が大きく開いているから入ってきやすいのか、ときどき外国人が入ってくる。様々な国籍をもつ彼らが異口同音に僕に尋ねるのが外国人専用の旅館の所在地である。
 今日はカップルが入ってきた。男性は品がよく、女性は魅力的で、なかなか好感の持てる二人連れである。ところが所在地を尋ねられたのはいつもの近くの旅館ではない。鴨川沿いの川端通りを五条通よりさらに北へ行ったところにある小さなホテルであった。これは僕のつたないカタコトの英語では説明がしにくい。連れて行ってあげようにも仕事中の身とあってはすこしばかり遠い。困っているところへ福の神が到来した。うちでできあがった仕事を引き取りに来たお得意先の2トントラックである。袖すり合うも多生の縁、いっそトラックの助手席に二人を乗せていってもらおうではないか。古い顔なじみのドライバー氏は最初こそ困惑気味であったものの、やがて快く引き受けてくださった。
 荷物の積み降ろしを待つあいだ、二人に話しかけてみる。僕は僕の意志や権利を踏みにじろうとする輩には固く心を閉ざして身構えるが、そうでない相手に対しては僕本来の愛らしい人柄の良さがにじみ出てそれがすぐに伝わるのである。彼らはローランドとカリーナのヘンダースン夫妻。オーストラリアの戦争記念館でフォトショップを営んでいる。二人を誘って目の前の昭和橋で写真を撮る。なかなか絵になる二人である。「コンタックスの良いカメラをもってるね。君は写真家なの?」だって。写真家じゃねえよ。メールアドレスを尋ねたらオーストラリアの自宅のアドレスを書いてくれる。ちがうよ、メールアドレスだよ。僕は「MY HOMEPAGE…」といってこのホームページのURLが印刷された名刺を差し出す。帰国したらオーストラリアの空の下で「鴨川の空」を見てくれるといいな。
 そうこうするうちにトラックの出発である。さあ二人とも、荷物は荷台に置かせてもらうといい。そして助手席に乗り込んで。どうかよい旅を…。
「ヘンダースン夫妻」
「タイムトンネル」 「タイムトンネル」
2004年5月10日撮影

 あれから九ヶ月が経過したことになる。
 あれからというのは…すこし説明しにくい話になるが、僕が2004年の世界へ帰ってから、という意味である。2004年の夏、長年の好奇心に突き動かされるように鴨川からヒミツのぬけあなに突入した僕は、なんと九ヶ月後の未来世界である2005年4月21日の高瀬川に出てしまった。あまりのことにアタマが混乱状態にはあったものの、道路に上がってそのまま300メートル南の多田製張所へ帰り、2005年の世界の僕自身と直接対面してしまうことに危惧の念を抱いた僕は、もと来たトンネルを引き返し、2004年6月19日の鴨川に出て、もとの世界に無事帰りついたのであった。
 それから約九ヶ月が平穏に経過した。その間、人目のない時をねらって画像奥の鴨川べりに立つ地蔵堂の扉を開いてみた。おそるおそる内部を調べてみたものの、なんの手がかりも発見できなかった。赤い鳥居もコツコツと拳で叩いてみた。まぎれもない木製であった。この時点で名状しがたい冷気を背筋に感じていた僕は、鳥居のある建物の内部までは覗くことができなかった。
 さて、約三週間前の4月21日、僕が物陰に隠れ、この位置からタイムトンネルを監視していれば、2004年の僕自身がトンネルの暗がりの中から顔をのぞかせる瞬間が目撃できたはずである。だがそれもかなわなかった。多田製張所の仕事があまりに忙しく、ついにここまで足を運んでくることができなかったのである。日常に流された僕は歴史的瞬間を見逃してしまったことになる。それにしてもあの日、あの時間に、多田製張所へ集中的にやってきたトラックとクルマの台数、次々と間髪を入れずにかかってきた電話の件数はただごとではなかった。僕を多田製張所にしばりつけることによって秩序を維持しようとする目には見えない「時間」の意志が働いていたとしか考えようがない。
 でも、僕は思う。これで本当によかったのだろうか。あの日…そう4月21日、タイムトンネルを通って2004年の世界から来た僕は、2005年の高瀬川に出て、短い時間ではあったが道路にも上がったのである。2004年の僕が道路上でキョトキョトしているスキを狙って素早くタイムトンネルに突入した2005年の僕が鴨川入り口に抜け、2004年の世界の多田製張所にそのまま帰ってしまったとしたらいったいどうなっていたのだろう。それともそんなことはもとから不可能だったのだろうか。 
 古びた地蔵堂と赤い鳥居は何も語らず、何も答えてはくれず、また何事もなかったかのように今日もここに立ちつくしている。
(鴨川・秋→「鴨川地蔵堂」に続く)
「2005年の世界」
2005年4月21日撮影

 出口が近づいてくる。高瀬川が見えてきた。僕が鴨川の方からこのヒミツのぬけあなに入ったときはトンネルの暗闇のすぐ先に高瀬川口が見えていたというのに、ここまでたどり着くのにずいぶんと長い時間がかかったような気がする。おまけに、暗闇の中で僕を襲った突然の激しい頭痛、あれはいったい何だったのだろう。キーンというとてつもなく高い音もかすかに聞いたような気がする…。
 まて、なんなんだこれは。僕のクロノグラフが2005年4月21日を表示しているではないか。そんなはずはない。僕がこのヒミツのぬけあなに鴨川から突入したのは2004年の6月19日である(鴨川・夏→「ヒミツのぬけあな」)。なんなんだこれは。いったいどうなってしまったんだ。たんなるぬけあなだと思っていたら、これはタイムトンネルというものなのだろうか。しかしそんなものがいったいなぜ京都の高瀬川のこんなところに…?
 落ち着け。落ち着くんだ。落ち着いてじっくりと考えてみよう。鴨川からぬけあなに入るとき、何かおかしなものはなかっただろうか。……。そうだ、あの地蔵堂だ。このタイムトンネルの鴨川入り口の真上にあった古びた地蔵堂、あれが怪しい。どう考えても怪しい。あんなところに地蔵堂があるのがおかしいではないか。あれこそタイムトンネルを稼働させている機械室の入り口なのではなかったのだろうか。ここが本当に2005年の未来世界であるとして、このまま上にあがって多田製張所に戻ってみたらもうひとりの僕が働いていた…なんてことになったらエライことではないか。高瀬川出口からとにかく水の中へ出て、ついでにちょっと上にもあがってしまったけれど、ここはもう一度タイムトンネルを通って鴨川入り口まで引き返してみるのが良策。そして無事に2004年の世界に帰ることができたら、あの地蔵堂の戸を開いてじっくりと内部を調べてみることだ。赤い鳥居の付いた家と、その向こうに見える地蔵堂。これはどうも何かありそうな気がするが…謎は深まるばかりである。
(→「タイムトンネル」に続く)

「2005年の世界」


「吹けば春来る」
2005年4月10日撮影

 小さな子供だった頃、繁華街を歩きながら大泣きに泣いた記憶がある。
 1957年10月の夕方、家族に連れられ京都の新京極を歩いていた僕の心は凍りついた。道が違う。いつもの東映の映画館へ行くコースとは違っている。ムクムクとわき起こる不安の黒雲。肝臓に冷水を浴びせられるような絶望。股間をくすぐられるような焦燥…そして。
 今日は東映の映画館へは行かないのだという現実に直面した僕は大泣きに泣き、玉砕覚悟で決死の抵抗を試みたものの、敵は多数。多勢に無勢。孤立無援の抵抗者はノンポリと風見鶏を含む多数派に包囲され、ひきずり込まれるようにして松竹の映画館へ連行されてしまった。子供の悲哀をこのときほど思い知らされたことはない。これを悲劇と言わずしてなんといおうか。
 初めて足を踏み入れた松竹の封切館で上映されていたのは、木下恵介監督の大作『喜びも悲しみも幾年月』。木下恵介のなんたるかも知らぬ多数派が好みそうな映画である。木下恵介の名前を不覚にも知らなかった六歳半の僕だが、併映のモノクロの小品『うなぎとり』(木村荘十二監督)のほうがすぐれた作品であると感じられた。『うなぎとり』をこれ以後再見してはいないが、このことには確信がある。
 それでも『喜びも悲しみも幾年月』のいくつかのシーンを記憶している。のちに再見してみたがたしかに存在した。映画は凡作だが木下忠司作詞・作曲の主題歌だけは名作の名にふさわしい。

「新兵器登場」
2005年4月9日撮影

 この場所に仕事場を移して以後、二度目のサクラの開花をむかえた。二度目となると写真の方とて前回と同じでは意味がないし芸がない。それなりの創意工夫が必要である。
 そこで僕は考えた。新兵器を開発する以外に道はない。もちろん僕の仕事場の前の高瀬川サクラ大木写真を撮るための新兵器である。それももはや定番となった感のある昭和橋上からの写真でなければならぬ。思案熟慮の末、パレットを積むことを思いついた。パレットというのは紙を積む木製の台である。広く社会を見渡してみればパレットに積むのは紙に限らないが、僕の仕事は紙を扱っているのだからパレットといえば紙を積む台である。紙をパレットに積んで結束し、プラッターという立ち乗り式のフォークリフトで持ち上げてトラックに積み込んだり、または紙を満載したパレットを逆にトラックから降ろしたりするのである。
 パレット自体の厚みは7センチから15センチくらいしかなく、粗末な板を張りわたしただけの代物で、真ん中は空洞だからじつに軽い。これを十台ばかり積み上げてみた。ハンドリフトでもって目の前の昭和橋上までガラガラと引いてゆく。新兵器「バベル10号」の完成である。
 「バベル10号」の上に乗ってみた。思ったより低い。「バベル10号」の高さは約1メートル20センチ。僕の身長が1メートル63センチだが、目はアタマの上についているわけではないから、合わせて2メートル70センチくらいだろうか。昭和橋が水面から70センチくらいだから、合計しても水面から4メートルにも満たないのである。これではいかん。開発のやり直しである。設計図をもとに「バベル10号」の上にさらにもう十台積み上げ、パレット計二十台の「バベル20号」とした。画期的なスーパー新兵器の誕生である。
 さっそく橋の上まで引いてゆく。ガラガラ。ゴトゴト。じつにうるさい。おまけに人目をひく。「バベル20号」の欠点は隠密行動ができない点にあることが判明した。めげずに乗ってみる。僕の目の高さは水面から4メートル40センチとなった。グラグラユラユラと不安定である。こわい。あぶない。あたりを見渡してみた。通行する人たちが好奇の目で僕を見上げている。だがそれがどうした。僕は目立ちたがりやではないが、まわりの人から浮き上がることなど平気である。僕には僕の生きるスタイルや流儀があるのであって、対面を取り繕って何もせず、世間体だけを気にして生きるほどつまらぬ人生はない。
 ふと下を見ると「バベル20号」のすぐかたわらにはポカンと口を開けた子供が一人。おい、君の気持ちはわかる。だけど兵器に近寄ったらあかん。倒れたらどうするねん。兵器というのはキケンがアブナイものなんやで。
 という開発秘話のはてに撮ったこの画像。われ、満開の桜の枝を見おろすことに成功せり。しかしこうなると2006年度のことが今から思いやられる。どうやってこれを凌ごうか。とりあえず2005年の晩秋、ふたたび「バベル20号」に乗り組んで「高瀬川落葉のアラベスク」の撮影におもむくことだけは決まっているのだが、まことにアタマを悩ませるところである。
「新兵器登場」
「花は遅かった」 「花は遅かった」
2005年4月8日撮影

 2005年はサクラの開花が遅かった。高瀬川べりのサクラは3月末になっても開花せず、4月に入ってようやく咲き始めた。満開となったのは4月8日ごろのことである。
 2004年の夏が暑くて、台風がたくさんやってきて、12月が暖かくて、年末から寒くなって、2005年になってからも寒い日が多かったせいだろうか。開花が遅いぶん咲いている期間もスライドするのかと思っていたらそうではなく、散るのは早かった。満開になったというのに、仕事が忙しかったせいもあるが落ち着いて撮影している暇もなかった。アッという間に散り始めてしまったではないか。つまり散り始めるのは例年どおりだったことになる。地球にはあらかじめ定められた四季の運行予定表があり、その遅れを取り戻そうとしたのだろうか。どのようなメカニズムがそこにはたらいているのか僕には知りようもないものの、こういう咲き方・散り方をすると心には強く残ることになる。散り始めてからは春風の吹く日が続いて、またたく間に散ってしまったという印象である。おかげで2005年の春風は僕にとって忘れることのできないものになりそうである。
「お茶屋さんの子」
2005年4月21日

 お茶屋さんにいったことがある。でも子供のころのことである。僕の通った小学校は五条楽園という旧遊郭のはずれにあったから、同級生たちの中にはお茶屋さんの子供がいた。男の子も女の子もいた。勉強のできる子ばかりだった。放課後、男の子の家にいちど遊びに行ったことがある。柔和で出しゃばらず、ちょっと変わったユーモアのセンスのある子だった。たしか勝手口から入った。あたりまえである。お茶屋さんに玄関から入る子供がいるだろうか。お茶屋さんの内部は表舞台と生活スペースとに分かれていた。彼の部屋は一階のバックステージ部分にあった。豪華な部屋だった。僕ははじめてベッドのある部屋を見た。ベッドはフカフカしていた。子供の目にもお金のかかった部屋だとわかった。僕の住んでいた家はまるで仕事場か物置だった。紙が所狭しと積み上げられていたのである。僕は二畳しかない部屋で寝起きしていた。
 僕ら大半の子供は地元の荒れた公立中学校へ進んだが、彼らは有名私立中学へ進学していった。小学校卒業後の消息はむろん知らないが、卒業の前に、担任だった30代の女性教諭が彼らだけに品物を渡していたことをおぼえている。たぶん私立中学への進学に際して何らかの指導をしたことへの謝礼に対する返礼であろう。あの女、教師として今でも許せないと僕は思っている。
「お茶屋さんの子」
「月明かりの下で」 「月明かりの下で」
2005年4月14日撮影

 たまには〈鴨川の空〉の外に出かけてみよう。ここは木屋町通りを高瀬川に沿って北上し、五条通を越えてさらにすこし北へ行った地点である。ここまで来ると高瀬川の両側に道はなく、木屋町通りは東側のみとなり、西側は画像のような細い小径となっている。目の前に高瀬川が流れているという点では僕の仕事場も同じだが、川を日々の暮らしの場としたこういう家にむしろあこがれる。高瀬川沿いに住むことがもしあるとすれば、こういう木造の家がいい。この家での僕の暮らしぶりを想像してみよう…。
 1月には高瀬川に降る雪をながめ、2月には高瀬川に張った氷をおそるおそる踏み、3月には水ぬるむ高瀬川に足を浸けてはみたもののその冷たさにやはりおどろき、4月には高瀬川を流れるサクラの花びらを呆然とながめ、5月には空の青さと高さにめざめ、6月には二階の窓から高瀬川に降る梅雨の雨を見るが、7月は蒸し暑いので嫌いである。8月には水の止まった高瀬川を南へ歩いて仕事場まで行き、9月はまだ暑いのでどうも気に入らず、10月には刺客に寝込みを襲われ、月明かりの下、高瀬川で白刃の火花を散らす。からくもしのいだが、どうやら藩のお家騒動に巻き込まれたに相違なく、いずれ第二の刺客を差し向けられよう。城下外れにいる剣の元師匠を訪ねるべき時が来たようである。11月には水に浮かぶサクラの落ち葉に冬到来の気配を感じ、12月には夜更けの高瀬川に音もなく降る雪に気づく。しかし大晦日はもちろん高瀬川どころではなく、多田製張所の年賀状の作製に必死である。たぶん正月休み中かかってしまう見込み。
 こうして僕と高瀬川の一年が終わる。 
「駅前旅館」
2005年3月31日撮影

 今は駐車場となっているが、ここは商人宿の跡地である。ここに建っていたのは、つげ義春の「リアリズムの宿」の冒頭に描かれているようないかにも商人宿らしい宿理想的な商人宿だった。僕のふたしかな記憶ではたしか1970年代末ごろまでは残っていたのだが、いつのまにか駐車場になってしまった。この画像の右下あたりの位置に石段があったところからみるに、往時にはちいさな船着き場の役目もはたしていたと思われる。深かったころの高瀬川をゆく舟から宿へ上がれたのであろう。
 ここに商人宿が残っていた時代、京都駅前には駅前旅館が残っていた。なんでそんな言葉を知っていたかというと、小説のおかげである。
 僕は中学一年生のころから京阪電鉄・七条駅近くの本屋に足を運んでいて、そこでときどき大人向けの文庫本を買った。そのなかでとりわけ心に残ったのが井伏鱒二の長編小説「駅前旅館」であったという次第。柊元旅館の番頭・生野次平の目を通して、中学生の僕は浮き世というもの=大人の世界をかいま見たような気がしたものである。それがのちのち何かの役に立ったかというとそうでもないけれど。とはいえやはり実物が生まれ育った家の近くの生活圏内にあるというのは絶対的な強みである。こんなことなら永井荷風も読んでおくのだったと今ごろ後悔している。僕の通った菊浜小学校はなんと五条楽園のはずれ、それもお茶屋さんの隣にあったのである。
「駅前旅館」
「鉢の行方」
2004年4月9日撮影

 サクラの花と枝のむこうに大島さん宅の「プレゼント」の台が見える。台の下には鉢が写っている。この鉢、今はもうここにはない。僕がもらい受けて東京へ送ってしまったからである。
 大島さんは不思議な女性である。僕がこの道を通って小学校へ通っていた頃、まるで事務員さんのようなスタイルでよく家の前に立っていた。2003年の6月に僕が仕事場をこの町内の元僕の生家に移したことから、大島さんとも再会することになった。大島さんと言葉を交わしたのは仕事場の移転の挨拶まわりをしたときが初めてであったような気がする。移転してから初めてではなく、生まれて初めてという意味である。大島さんは昔と同じように飄々としていた。
 昼休みや夕方、自転車でここを通りかかったときなど、大島さんと立ち話をすることがある。「イサオちゃん」と僕を呼んでくれる。大島さんは何でも知っている。僕が小さな子供だった頃のこの町内のことをよく知っている。僕が知らなかったいろいろなことを教えてくれる。だが大島さん自身のことを尋ねたことはない。目の前に大島さんが立っているだけで充分だからである。だから台の上にいろいろな品をならべ、「プレゼント」と添え書きしてあることについても尋ねたことはない。だけど写真は撮らせてもらった。
 その写真に目をつけた知人がいる。僕が毎日撮った写真を送信しては批評を仰いでいる人物である。台の下の鉢を貰ってくれないか、という。僕は大島さんにおそるおそる頼んでみた。するとどうだろう。大島さんは翌朝早く、僕の仕事場に鉢を届けに来てくれていたのである。
「鉢の行方」
「サクラの樹の上で」
2004年4月5日撮影

 表現者の道は厳しい。
 子供みたいにサクラの木の枝に登る。雨の日に傘と長靴で高瀬川に入る。台風が来れば鴨川の河原に降りる。道行く人に好奇の目で見られる。犬のフンを踏んづける。猫に白眼視されたうえ逃げられる。誤って鴨川に足を滑らす。鴨の一家に怒られる。自転車に当たられる。クルマにクラクションを鳴らされる。高瀬川の水でお尻をぬらす。だがそんなことはなんでもない。些細なことである。ひとたび表現者となって六道順逆の境を踏み越えてしまった以上は、もはや生まれた家も肉親もなく、帰るべき場所もないのである。
 とはいえ、孤高の境地ばかりが表現者の道ではない。僕の胸にズシンと応えたのは、このサクラの大木の枝の上にいたときちょうど下を通りかかった同じ町内の澤田商店の澤田義広社長からいただいた「落ちんといてくださいよ。救急車を呼ばんならんからね。」という一言であった。でもよくよく考えてみると…そうだったのか。彼は救急車を呼ばんならんことを心配していたのか。得意先の梵天社の社長にもこの枝の上から呼びかけたことがあって、キョロキョロとあたりを見まわしたすえに彼が発した言葉は「異様だ…」であった。でも僕は彼ほど異様でない。
 「見えないサクラ」でも触れたように、このサクラ、敗戦後に植えられたとすれば樹齢60年を数えることになる。老木ということになるのであろうか。「見えないサクラ」の画像のむかって右下から高瀬川に向かって突き出ているのがこの枝である。高瀬川の水面から枝までの高さは約二メートルを超える。だが三メートルには達しないだろう。ここから高瀬川の水面を流れゆくサクラの花びらを眺めるのは最高である。まさしく「高瀬川桜花流水」。 僕は思うのだが、この木が植えられて以来、この枝に登ったのはおそらく僕一人であったろう。半世紀以上もの長い時間があったというのに、なぜ誰も登らなかったのだろう。世間的な常識がそんなに大事なことなのだろうか? 僕にはそういうものよりも、このサクラの樹の枝の上から撮る数枚の画像のほうが大切である。
 一日は長く人生は短い。たかだか地上二メートルの枝であろうとも、思い立ったときに登っておかねばついに機を逸することとなる。高瀬川沿いの樹に枝があれば登り、鴨川にぬけあながあれば入る。これが表現者としての心得であり、また自然の呼び声でもあり、素直な生き方というものではないだろうか。
「貸本のにおい」
2004年4月10日撮影

 桜花流水の高瀬川。花びら流れるこの小さな橋を左に行ったところに森井さんの家がある。森井さんのオバサンはシャキシャキとした歯切れと面倒見のよい女性で、子供の僕はMさん宅に呼んでもらい、よく茶の間でテレビを見せてもらった。テレビというものが一般家庭に急速に普及しはじめた時代のことである。森井さんのご主人は市電の運転士さんだったが、森井さんは自宅の前の部分を店にしてマンガの貸本屋さんを営んでいた。僕が借りたのはその日届いてきたばかりの『少年』『冒険王』『おもしろブック』『ぼくら』など新刊雑誌ばかりだったが、店の両側の壁の本棚にはビニールカバーのかかった犯罪もの・刑事ものなど大人むけの貸本マンガが並んでいた。小さかった僕はそれらを借りたいとは思わなかったが、僕が二十歳のときに死んだ母親は「病気がうつったらかなんやろ」と言ってそれらを借りることを僕に禁じたものだった。森井さんのオバサンは届いてきた新刊雑誌の付録をくれた。自転車に乗る練習をしているところへ森井さんが通りかかり、後ろから押してくれたこともある。だが森井さんはテレビや付録や自転車のことをあまりおぼえていないという。ただ、僕の母親の身体が弱かったことからなにかと気をかけるようにしてくれていたのだという。森井さんが子供の僕にしてくれたことをよくおぼえていなくても、僕は森井さんがしてくれたことを今でもよくおぼえている。
 それでよいのではないかと僕は思っている。
「貸本のにおい」
「見えないサクラ」 「見えないサクラ」
2004年4月4日撮影

 このサイトを始めるにあたり、僕がとりあえず定めた「鴨川の空」の圏内とは、北は五条通り、南は七条通り、東は川端通り、西は河原町通りによって囲まれた長方形の内側部分である。そのように定めたことに特別な理由はないし、その範囲内にいつまでもこだわっているつもりはないが、これが僕が生まれ育った地域内であり、僕が通った菊浜小学校の校区内であり、今のところは僕が昼休みなどに仕事場を拠点として出かけて帰ってくることのできるギリギリの範囲内なのである。川端通りとは鴨川の川端の意味であり、河原町通りも同じであろう。この狭い範囲の中に二つの川が流れている。大きな鴨川と小さな高瀬川である。
 さて、京都市下京区の高瀬川沿いにこの木はある。僕はこのサクラの木の前に立つ家で生まれた。その古い家は解体されてすでになく、今は一階部分が多田製張所(僕の仕事場)となったあまり見慣れぬ家が建っている。 
 同じ町内の澤田商店の澤田義春氏の証言によると、このサクラは敗戦後に植えられたものだというし、もと学校の先生だった隣家の石崎夫人によると、十年ほど前がこのサクラの最盛期であったという。したがって僕が物心ついた頃、すでにこのサクラの木は満開の花をつけていたわけである。
 だが、現在の僕には「おうちの前のヤナギの木」の記憶はあっても、サクラの木の記憶がない。見事にない。僕にサクラの木は見えないのだろうか? いや、そうではない証拠に妙なことは記憶している。
 高瀬川沿いにあった小学校の入学式の当日、校門の前に咲いたサクラを見上げて、「ああ今度このサクラを見るのはきっと卒業式のときだ。六年間なんてアッという間だろう。そのとき僕は、入学式の日にここでこう思ったことを昨日のことのように思い出すのだ」などというおかしな感慨を僕は抱いたのである。おまけに六年後、卒業式を終えて下校するとき、「ほら、やっぱりそうだったではないか」という暗い感情に襲われたことまでクッキリと記憶しているではないか。
 そういう僕であるにもかかわらず、では、どうしてこのサクラの木の記憶だけが欠如しているのか…?
この謎に対する一つの仮説として有効たりうるのは、天文学者フレッド・ホイルが彼の小説『10月1日では遅すぎる』の中で述べている理論ではないかと僕はひそかに疑うのだが、あまりにも大胆な仮説であり、ここでそれを詳述するだけの紙幅はない。 



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