高瀬川・




「水の家」(「消えた小判屋敷」)
2014年6月8日撮影

 






「塀についた扉」
2011年7月18日撮影

 「塀についた扉」(「くぐり戸」)はH・G・ウエルズの名高い短編小説である。僕は高校生の時にこれを初めて読み、昨年再読した。その間に45年という時間が経過したことになるが、読んだ印象は変わらない。僕が変化していないのだろう。
 正確にいうと、あのときもう一篇読んでいる。「ダイヤモンド製造家」である。昨年は再読しなかったが、これも記憶している。二作に共通しているのは、作者が明確な結論を出さないで、ことの真実を想像し判断することを読み手の人生経験にゆだねていることである。「塀についた扉」の語り手である男の友人は子供の頃に一度だけ行ったことのある、しかしその後は彼がなんらかの事情で急いでいるときにしか出現しないくぐり戸の中の世界へ旅立っっていったのか、それとも工事用の穴に落ちて事故死しただけなのだろうか。「ダイヤモンド製造家」の主人公がある夜に出くわした男、その後ふたたび
                   無産者階級出身者の吐息のようなものが息づいているのを感じるのである。
未完

 


「レイチェル」
2008年7月5日撮影

 僕が通った小学校(とうに廃校になって建て替えられ、いまでは菊浜区民会館)の北隣にあるタイル張りのお茶屋さんの夕景である。三角形の建物の北面は夕日に映え、南東面は黒い影に沈み、デジカメをローアングルに構えた僕の背後には樹木の緑濃い夏の高瀬川が流れる。
 あれはタイレル社であったか、リドリー・スコットの映画「ブレードランナー」の中にもビルの壁面が夕日に照り映えるカットが登場したと記憶する。記憶。記憶。記憶。記憶ほど不確実であてにならぬものはない。先日、多田製張所の三軒北にある澤田商店の澤田義広氏が仕事のことでやってきた。彼に配偶者(これより後2017年に離婚したが)を紹介し、彼女にむかって「この人は僕とは毎朝集団登校で小学校に通った仲で…」と言ったところ、澤田氏は言下にそれを否定した。「イサオちゃんと僕とは七つ違うから一緒に通っているわけがないよ」というのである。衝撃打撃混乱惑乱。では…あれは誰であったのか。むかし奥行きの深い澤田さんの住居兼仕事場で僕と遊んだ頬のぷっくらした男の子は誰であったのか。「ブレードランナー」のヒロインであるレプリカントのレイチェルの幼時の記憶は、製造者であるタイレルの亡き娘の記憶が移植されたものであるという。では、幼時に澤田氏と遊んで毎日五条楽園のはずれにあった古い小学校に集団登校をした僕の記憶はじつのところ誰のものなのであろうか。そういえばあれこれと思い出してみるにつけ記憶の不整合がさまざまあることに気づいて愕然とする。僕の手元にはレイチェルが持っていたような幼時の写真など一枚もない。偽の写真すらみごとに一枚もないところがかえって怪しく、疑念はますます深まってゆくのである。
「ジャングルの奥地に」 「ジャングルの奥地に」
2006年9月8日撮影

 高瀬川に沿った木屋町通りは木々が茂って緑が多く、夏場には木陰となって道行く人を激しい日差しから守ってくれる。だが時として思いもよらぬ弊害もある。
 あれは三年前。高瀬川べりの僕の生家跡の一階に仕事場を移転して二ヶ月ばかり経過した8月のこと。僕の上半身に突然ジンマシンが出た。ごらんのようなジャングルを粗末な小舟に乗り組んで探検している以上、いつなんどき未知の病に犯されてもなるほどおかしくはない。僕はただちに小舟を降りて高瀬川岸に上陸し、日の暮れるのを待って京都の街なかの病院へ駆け込んだ。今日一日の患者の多さにいいかげん疲れた様子の皮膚科の若い医師は僕の話も聞かず、上半身をチラリと見ただけで、こう言いはなった。
 「ケムシです。」
 「えッ?」
 「ケムシの毛のアレルギーです。」
 ろくろく診察もせずにここまで自信ありげに断定できるとはなんたる名医であろう。
 「しかし…」
 「二、三日前から毒ケムシが大発生していましてね。今日はあなたで10人目くらいかな。だから見たらわかります。近くに公園はありませんか?」
 公園?…正面児童公園のことか。小さいころよく遊んだところである。ブランコに酔って気分が悪くなったっけ。それでもやめられなかったな。でも公園まで行く必要などない。画像のようなジャングルの奥地である。木ならいっぱいある。サクラの木、ヤナギの木、マツの木、サルスベリの木、カエデの木、ヤマモミジの木…ここで働いているかぎりは木には一生困らない。一本だけだがシュロの木まであったようだ。それにしても毒虫ならぬ毒ケムシとは、まさしく盲点であった。ケムシといえばサクラの木と相場が決まっている。うちの仕事場の前も、高瀬川をはさんだ向かい側もなるほどサクラの木である。だがこれもジャングルの奥地に生きる者の宿命とあきらめよう。他に生きる道はないのである。
 医師は「4、5日もすれば消えますから」と薬も出してくれず、僕は安心と虚脱を胸に抱いて京都の街へ出て、翌朝ジャングルに戻った。
「花と怒濤」
2006年9月8日撮影

 長い冬のトンネルを抜けて春がやってきた。サルスベリの花咲く高瀬川べりでは暑かった夏が終わろうとしているけれど、僕のこのサイト「鴨川の空」には、ようやく更新の花咲き乱れる春が訪れようとしている。ああ、心の南半球よ。高瀬川をさざめかせ、鴨川に吹く風よ。川べりに咲くサルスベリの花の鮮やかな色が目にしみる。 
 誰も言ってくれるはずもないから自分で言おう。ここへきてまるで怒濤のような更新ぶりではないか。ただしこの怒濤、いつまで持続するかは保証のかぎりではない。自分でもわからないことを保証できるわけがない。ただし文章の中身に関していえば、高瀬川べりに色とりどりの花が咲くように、冬にだって空から舞い降りた雪の花が木々の上に咲くように、虹色の硝子玉が転がり出るような上質で硬質のキャンディの味わいをめざしている…つもりではいる。ところどころ拾い読みをしてみると、大半が一見気むずかしそうだがじつは愛らしくも図々しいという僕のキャラクターを映して、センシブルでやさしい味がするものの、中には風変わりな味や苦い味に仕上げたものも混じっているようである。
 少しだけですがご注意ください。
「花と怒濤」
「日と蔭」 「日と蔭」
2006年8月24日撮影

 加藤泰の映画と高村薫の小説が好きで、あるいはわかってくれるかもしれないと思う相手には適当に推薦することにしている。 
 だが結果はといえば、ハズレ。
 すべてハズレであった。
 加藤泰の様式美が冴える『緋牡丹博徒・お竜参上』を見て「ヤクザ映画は好きじゃないしなあ」と言った50代半ばの男性がいた。そして「あんたの見方はプロや」ときた。これは今までに耳にした最低の感想。映画「作品」とまともに向き合うことなく、僕を「プロ」に棚上げすることで、映画に通俗的物語性以上のものを求めない自己のスタンスの保全をはかりたいというわけか。僕が愚かであった。ビートルズを歌う男に加藤泰が通じるはずがなかった。であるにしても、こうもハズレばかりが出るのはなぜだろう。 
 いつかもこんなことがあった。
 高村薫の『李欧』を30代半ばの女性に推薦してみたところ、「多田さんは硬質の抒情と言うたはったけど、湿気がある。私のいちばん嫌いなところにストライクで入ってくる」という答えが返ってきた。
 けっこう強烈な拒否反応である。
 「湿気」だって?
 ベトベトと蒸し暑い夏の京都の湿気ならば僕も嫌いである。だが高村薫の「湿気」というのは理解できない。彼女は1980年代以前の日本映画(とりわけ時代劇)にも拒否反応があったところからすると、これは何か別のものを「湿気」と言い換えているのではないだろうか。いわゆるサブカルチャー世代である彼女のいう「湿気」とは、あるいは生活感情や情念の別名ではないだろうか。僕はそのように疑っている。 
「むかし舟が通った」 「むかし舟が通った」
2005年8月7日撮影

 これは道路ではない。水の涸れた高瀬川である。いや、水の涸れたという表現は正確ではない。水の止められた高瀬川なのである。 
 夏になって少雨の状態が続くと高瀬川の水が止められる。僕は子供の頃、しばしばこのような情景を目にしてきた。目にしてきただけではなく、鼻にしてきてもいる。水の堰き止められた高瀬川は独得の臭気を発するのである。
 先日わかったことがある。高瀬川の水が涸れるのには、鴨川沿いの飲食店が夏になると開く「川床」が関係していたのである。三条から五条にかけて連なる鴨川沿いの(ということは、道路一本を隔てて高瀬川沿いでもある)飲食店や料理旅館は、夏場には「川床」を設置している。その「川床」は各店の奥から鴨川に向けてせり出していて、その「川床」の下、つまり鴨川内の河川敷のいちばん東側を小さな川が流れている。それを禊川という。そして夏場の少雨の時季になると禊川に水を流すために、高瀬川に流す水の余裕がないのだという。高瀬川には流れないように水門を閉めてしまうのだという。なるほど、「川床」は下に水が流れていてこそ画になるし風情も生ずる。だがしかし…僕にはどこか割り切れない気もする。地元経済のためかどうかは知らないが、画像のように無惨にも干上がってしまうとは、むかし舟が通った高瀬川の歴史もなんだか軽く見られたものである。
「雨やどり」
2005年8月5日撮影

 夕方6時前になって激しい夕立がやってきた。
 冷房中のため締め切った入り口の戸に大きな人影が映っている。不意の雨に多田製張所の仕事場の庇の下で雨やどりをしていたカップルであった。
 いきなり内側から戸を開いてやったら驚いた様子である。「そんなところに立っていないで、カムイン」と招じ入れてカタコトの会話をはじめる。女性はカナダ人で男性はアメリカ人。6月に鴨川で出会ったカップルも同じ組み合わせだった。これはたんなる偶然だろうか、それとも流行なのだろうか?
 大急ぎで奥にいる上野さんを呼びにゆく。多田製張所に勤めはじめたばかりの新人である彼女にも一緒に写真に入るように勧めたが、はにかみを顔に浮かべて「わたしは…いいです」と奥ゆかしくいう。
 撮影を済ませたら、二人が積み上げられた紙の山を見まわして目を丸くしている。「これは普通の紙?」奥へ連れて行って貼り合わせの実演をする。「オー、マジック!」だってさ。
 二人とも旅行者かと思ったら、カナダ人である女性は山科に住んでいるという。陽気で前向きな社交家のようである。アメリカ人の男性のことは聞き漏らしたが、握手をしたら大きな手であった。雨が上がり、「6時からディナーの予定なの」といって二人は帰っていった。だがあとで後悔したことがある。調子に乗って上野さんを「妹だ」と紹介してしまったが、僕との年齢差を冷静に考えてみると「娘」のほうがふさわしかったのである。
「雨やどり」
「日傘雨傘」 「日傘雨傘」
2005年7月6日撮影

 高瀬川沿いの道を日傘をさした人がゆく。後ろ姿だけ見ているとわからないが、真正面から見るとかなりの年輪をかさねた女性である。
 ところでこれは日傘だろうか。光沢からするとナイロン素材の雨傘のようである。大きさからみてもやはり雨傘ではないだろうか。日傘ならばこんなに大きくはあるまい。後日この女性とふたたび炎天下ですれ違ったが、そのときもやはりこの雨傘だった。この画像でもかすかにわかるけれど、雨傘は一部が破れかけていた。それにしても傘と着衣とカーゴの色の調和がとれているのは偶然だろうか…。
 この直前、僕は北の方角(画面奥)から自転車で帰ってきた。この老女とすれ違う直前、さらにすれ違った瞬間、僕は「何か」を感じた。仕事場は目前である。仕事場の前に自転車をガシャンと投げだして背中からリュックをもぎ取る。手を突っ込んでデジカメを探す。ケースから取り出すのももどかしく、電源を入れる。フォーカスを合わす。僕の身体が自然とかがみ込んで、すこしだけズーム。それがごらんの画像である。
 この老女とすれ違った瞬間、僕は何を感じたのだろう。それがうまく言葉にならないのである。言葉にできないのである。いや言葉にできないからこそ、あわてて写真に撮ったのだろうか。
 比較的愛着のある一枚である。
「時のかけら水のかけら」
2004年6月19日撮影

 三条小橋上から南をながめる。すぐ近くには「大村益次郎卿遭難之碑 佐久間象山先生遭難之碑 北へ一丁」の石碑がたつ。
 右手にあるのは「TIMES」。建築家・安藤忠雄の作品である。安藤忠雄を知ったのは1980年代の後半、深夜のテレビで放映されたドキュメント番組だった。当時売り出し中のこの建築家が小さな家の建て替えを依頼される。依頼主にいったセリフがすごい。「コンクリートの家は夏は暑うて冬は寒いから身体をきたえてもらわんといかん。」 けれどむしろそれはさわやかに響いた。安藤忠雄自身が住まう長屋そのものの古い家も紹介されていた。僕が彼の作品にどこか心惹かれてしまうのは、現在の京都駅ビルを設計した建築家のような俗悪な装飾趣味には目もくれない彼の思い切りのよさ、どこかさわやかな感性のゆえである。
 彼の著書「Unbuilt Projects」には、コンペに落ちて実現しなかった京都駅ビル改築案「ツインタワー」が紹介されている。だが僕が安藤忠雄より京都駅ビルの設計者としてもっとふさわしかったと思うのは、野又穫である。とくに初期の野又穫。天にむかって何かを希求するかのような彼の京都駅ビルを見てみたかったと思う。野又穫が実際には存在しえない、存在しようのない空想建築を描く画家であることはこのさい関係がない。いずれにしても実現しなかったのだから、空想であろうが何であろうが同じことではないだろうか。
「時のかけら水のかけら」
「石碑の謎」 「石碑の謎」
2004年9月11日撮影

 これは謎の石碑である。
 場所は、西木屋町通上ノ口上ル。僕の通った小学校の前。1869年に京都第十八番組小学校として創設されたという菊浜小学校は、すでに統廃合によって123年の歴史を閉じ、跡地には名も知らぬ公共施設が建設されて今に至っている。
 石碑はずっと以前からそこに立っていた。小学校からの帰宅時など、子供目当てに亀や手品やハリガネのゴム鉄砲などを売るそれぞれの商売人が、入れ替わるようにしてこの石碑の傍らにいたものである。
 石碑の表側には「紀念」の大きな二文字が彫られ、裏側には「菊浜学区清流会 昭和八年五月竣工」とだけある。ではいったい何の「紀念」なのか。竣工とあるからには何かの工事があったことは間違いないのだがそれがわからない…。
 困ったときに僕が尋ねるのは、仕事場がある十禅師町内の三宅康雄氏と澤田義広氏である。三宅氏は「なつかしい人々」(「歳事とくらし」ページを参照)の写真モデルをつとめていただいた三宅秀樹氏の父上で、ある種の商売人の鑑。この御仁の商売人としてのモットーは「誠」であると僕はみている。ただし新選組ではない。澤田氏は地域の各種役員から少年野球の審判員までつとめる、伝法な口調が魅力の市川雷蔵ばりの美男である。
 お二人に相談を持ちかけてみた結果出た結論はなんと、不明。いや正確にいうと、石碑の由来は誰にとっても不明なのであって、お二人は石碑の由来が不明であることを知っておられたのであった。澤田氏によれば、目下しかるべき人が調査中であるという。誰も由来を知らない石碑。これは究極のミステリーではないだろうか。
「いかにして高瀬川は守られしかA」
2004年6月12日撮影

 僕が守った高瀬川の現在。
 
「いかにして高瀬川は守られしかA」
「いかにして高瀬川は守られしか@」 「いかにして高瀬川は守られしか@」
2004年6月12日撮影

 あなたは知るだろうか。
 過ぎ去った戦後史、その埋もれた闇の部分で、人知れず高瀬川を守った男が存在したことを…。
 あれは、小学校四年生のとき。
 担任だった中年の男の先生が僕を職員室に呼び出して言った。
 「多田君。作文を書いてきなさい」
 僕は知らなかったが、その当時、高瀬川にフタをして木屋町通りをクルマがビュンビュン走れる広い道路にするという構想がどこかで持ち上がっていたらしく、その計画に反対する作文を書いてきなさい、と僕にいうのである。僕が呼ばれたのは、たまたま高瀬川に面した家に生まれ育って住んでいたからだろう(ちなみに、長い流浪旅の果てに今またここに住んでいる)。
 家に帰った僕はすぐに作文を書いた。子供の頃は早かった。とはいうものの子供が高瀬川を愛しているはずがない。
 後日、何かの用事で職員室に行った僕は、先生の机の上に置かれた僕の原稿をたまたま見てしまった。案の定、それは改作されていた。僕が子供なりにそれらしく仕立て上げた原稿のあちこちに朱が入れられ、それはさながら高瀬川の消滅を憂う切実な魂の叫びと化していたではないか。だが先生は忘れている、子供がそんなものを書くはずがないという現実を。 その後、僕も先生もそのことは互いに知らぬ顔である。卒業するまで知らぬ顔だった。
 
 ここで時が急速に流れて、現在である。
 今では僕の仕事場兼住居となった家の前にある高瀬川は、フタをされることもなく、クルマがビュンビュン走り過ぎることもなく、いやそんな計画などはじめからなかったかのようにのんびりと流れている。
 僕は思う。ひょっとしたら僕の作文、無惨にも改作された作文、まるでアラン・スミシー・フィルムみたいになってしまったあの作文が、京都市の都市計画局あるいは外部の諮問委員会に名を連ねた人たち中の誰かの目にとまって彼らの胸を打ち、行政を動かすことになったのではあるまいか。そうではないと誰に言い切れるだろうか?ことの真実はもはや誰にもわからない。それゆえ僕の妄想も途切れることがない。
 高瀬川の水の流れのように。
(2014年5月26日改稿)



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