高瀬川・


「十字架(または、八戸の海に消ゆ)」
(2015年2月28日撮影)

 ハゲヤマさんが自己破産をしてハゲヤマさんの会社がつぶれた。僕とは40年を越える知り合いで、いつか鴨川春ページの「鴨川弧影抄」に登場していただいたあのお得意先のハゲヤマさんである。
 2月27日のそろそろ夕刻という時間にかかってきた電話からことは始まった。僕とは同じく旧知の洋紙店の営業マン氏が「いまB社の前にいるんだけど、入口が閉まっていて自己破産云々という紙が貼り出されてある。なにか聞いてる?」いうのである。青天の霹靂。
僕は自営業者で、この月もハゲヤマ(さん付けは莫迦らしいからやめる)の会社の仕事をしている。今月の売り上げ(しょせん微々たるものだが)はどうしてくれる。
(未完)


「カレンダー」
(2014年11月24日撮影)

 ときおりだが僕とすれ違うと丁重なあいさつをしてくれる男性がいる。
 カレンダーの人である。
 (未完)





「奇妙な話」
(2014年1月3日撮影)
 
 従業員が急逝した。
 六十代半ばを過ぎた男性。正式にはパートタイマーである。数年前からうちに通い、ときおりいねむりをして京阪電車の下車駅を乗り過ごしはしたがその都度電話連絡は欠かさなかった。それが突然欠勤した。連絡もない。電話にも出ない。よほどのことがあったのだろうとその日は思い、翌日を待った。それでも出勤して来ない。連絡もない。ただごとではないと考え、紹介者である大阪の知人に連絡をとった。知人はたまたまその日が休日、即座に大阪城に近いワンルームマンションへ向かってくれた。2012年11月初旬のことである。
 約一時間後にかかってきた電話は次のようなものだった。
 「部屋の鍵がかかっていたので管理人に事情を話して開けてもらった。○○さんは突っ伏して死んでいた。血を吐いたあとがあった。缶ビールとコンビニで買った食材が残っていた。いま警察が検分している。絶縁状態の親族には警察が連絡をしてくれる。あとで多田さんにも大阪府警の人から電話があると思う」
 故人について僕が知っていたことは、かつては大阪市の卸売り市場内で青果卸業を営んでいたこと、経営に失敗して億を超える負債が生じたこと、そのことで親族とも絶縁状態になったこと、子息の一人は脳外科医になっているらしいこと、などである。しかしいずれも本人の口から直接聞いたのではない。すべて警備会社時代の歳の離れた同僚であった僕の知人が話してくれたことだった。のちにもう一人の元同僚を伴って京都の僕のところまで訪ねてきてくれたその知人の話によれば、警察からの連絡を受けた親族は遺体の引き取りを拒否して姿を現さず、葬儀も福祉事務所の手によって執り行われ、遺骨の引き取り手がなければ一年後には無縁仏になるしかないということだった。僕が月々積み立てていたささやかな額の退職金(僕には受け取る権利がない)も宙に浮いたままになってしまうだろう。
 さて話はここからである。
 その男性、昼休みには毎日のように七条大橋を東へ渡ったところにある大手通販サイトと同じ名前の喫茶店へ赴いて昼食をとっていたことを僕は知っている。自転車でたまに通りかかったときなど、七条通側を向いたカウンター席に腰を下ろして別の客と世間話をしている姿を見かけていたからである。見かけはしたが入っていって一緒に食事でもというつもりは僕にはない。知ってはいても知らんふり。従業員とは(まあ相手にもよるが)個人的な話をしない、必要以上に親しくはならない、愚痴など言わないし聞きたくもない、互いに甘えや馴れ合いは許されないというのが僕の流儀だからである。
 亡くなって半年以上経った頃だろうか。昼休みにたまたまその店で食事をし、支払いをする際、ふと店主に話しかけてみる気になった。
 「○○さんという人がよく来ていましたか?」
 「そうなんです。去年お亡くなりになりましたけどね」
 「そう。でも、どうしてそれを?」
 「あの方が勤めてらしたところの社長さんがここに来られましてね。コーヒーチケットも処分してくださいと言って帰られました」
 「……?!」
 驚いた顔は見せなかったし、自己紹介する必要も感じなかった。僕は水戸黄門ではないのである。
 しかしそれにしても、故人が勤めていたのは僕のところ以外になく、多田製張所は会社ではないが社長と呼ばれるとすれば僕以外にはない。ところが僕はすくなくともここ二年の間この店を訪れたことがないのである。
 では誰がこの店を訪れたというのか?
 僕がもう一人いる…はずはない。店主が僕に嘘を言う…必然性がない。とすれば、やはり店主のカン違いと考えるのが自然だろう。〈誰か〉が店を訪れ、故人について店主と話して帰ったのだろう。店主はその〈誰か〉をなんとなく社長だと思い込んだのだろう。その〈誰か〉はおそらく自分の氏素性を店主に告げずに帰ったのではないだろうか。
 では誰が? 
 僕の考えでは、大阪の知人である。元同僚と二人でうちへ来てくれた後、大阪へ帰る前に、故人から話を聞いていた、故人が毎日のように通っていた喫茶店にも立ち寄ったのではあるまいか。知人は僕と違って故人とは家族ぐるみの付き合いをしていた。知人の小さな娘のことを故人は孫のように思っていたはずである。
 考えてみると、その後知人とは電話で話をすることすらしていない。だからこれはあくまで僕の推測でしかない。だが、おおむねこのあたりが妥当な結末というべきではないだろうか。
(2014年5月16日更新)




「モミジのクリスマス」
2011年12月12日撮影

 しあわせというのはつねに過去形である。
 そうではないだろうか?
 これがトルーマン・カポーティ作「クリスマスの思い出」を読んだ僕の感想である。
 ひとは現在の自分がしあわせだと思ってくらしているだろうか。おそらくそうではあるまい、と僕は思う。
 ひとは誰しもその時その場の不安や心配や悩みを抱えていて、現在形の苦悩から解放されることがない。もし苦悩のひとつから解放されたとしてもたちどころに新たな苦悩が湧き起こってくる。それが現在を生きているということだろう。
 作家として成功を収めたのちのカポーティは、アラバマで過ごした小さな子ども時代をある年のクリスマスシーズンに凝縮して綴っている。現在形であるカポーティにとって、大きく歳の離れたいとこであるミス・クックとラットテリアのクイニーとともに過ごした過去、諸々の事柄が昇華された美しい過去にしかしあわせはないからである。
(2014年5月11日更新)



「その前夜」
2009年12月21日撮影 

 僕が70年代東映映画を観るようになったきっかけは加藤泰監督『緋牡丹博徒・お命戴きます』(1971年 京都撮影所作品)である。じつは前年の『緋牡丹博徒・お竜参上』から観たかったのだが、併映が『関東テキヤ一家』という作品で、東映ヤクザ映画の封切館に足を踏み入れる決断がつかず二の足を踏んでいるうちに興行が終わってしまい、ずいぶん後悔した。まだ東映ヤクザ映画に興味はなく、加藤泰監督の『緋牡丹博徒』映画が観たかったのである。1971年6月1日に封切られた『緋牡丹博徒・お命戴きます』の併映は『懲役太郎・まむしの兄弟』(京都撮影所作品)で、中島貞夫監督作品として上の部類に属するのだが、初めて観る目にはこういう美意識のない(本当は様式美のない)下品な映画(!)はまだ苦痛でしかなかった。
 『緋牡丹博徒・お命戴きます』が公開されていた二週間のうちに数回通って東映ヤクザ映画に目覚めた僕は、以後東映の封切館に通って山下耕作や小沢茂弘の作品に失望しながらも次の加藤泰作品を待つ。翌72年3月公開のマキノ雅弘監督『関東緋桜一家』で藤純子は引退してしまったが、加藤泰監督が江波杏子主演で『昭和おんな博徒』を撮っているという。5月の上旬の封切りというので初日のオールナイト上映に出かけていったが、深作欣二監督の『現代やくざ・人斬り与太』に差し替えられていた。今にして思えば加藤泰監督が撮影を粘ったために東映は上映スケジュールの変更を余儀なくされてしまったにちがいない。
 そのような経緯で観た『現代やくざ・人斬り与太』に僕は衝撃と感銘を受けた。その理由は安藤昇の役柄の設定に尽きる。菅原文太や小池朝雄たちの愚連隊と、彼らが刃向かう組織との、そのちょうど中間にいる安藤昇という存在。菅原文太たちが刃向かう組織とは敵対しつつも大人の共存をしている近代ヤクザの組長でありながらも、もともとは愚連隊上がりという設定。つまり対角線である。中盤で、安藤昇と腹心役の室田日出男が高級車の車内で交わす会話。
「それにしても無茶苦茶な野郎だな。宮原、昔の俺達もあんな風だったか?」
「そうですね、あれ以上だったかもしれねえな。」
「今は昔か…。」
 映画のラストで安藤昇は菅原文太に腹を刺され、室田日出男たちは(はからずも)菅原文太を撃ち殺してしまう。僕は愚連隊でも近代ヤクザでもないが、この映画で安藤昇が菅原文太に対して抱えている〈苦さ〉には深く共感することができるのである。
 つづいて深作欣二は『人斬り与太・狂犬三兄弟』を撮り、その年の暮れには俊藤浩滋プロデューサーに抜擢されて、初めての東映京都撮影所で『仁義なき戦い』(第一作)を撮ることになる。思えばこのあたりが、『仁義なき戦い』のヒットによって以後の東映映画を(はからずも?)背負うことになるその前夜の、ちょうどこの映画あたりが深作欣二監督の絶頂期だったと僕は確信している。(天空群像ページ『仁義なき戦い』につづく)
(2011年4月11日更新)









「すれちがい」
2007年12月17日撮影

 マキノ雅弘監督の東映東京撮影所作品『昭和残侠伝・血染めの唐獅子』(1967年)のラストシーンに、心にのこるカット割りがある。高倉健の纏持ちが河津清三郎の悪徳博徒を斬り倒したあと、警官隊と群衆の待ちうける屋外へと出てくる。警官に引かれてゆく高倉健の前に、群衆の中から藤純子が出てくる。ふたりがすれちがう。心を互いに残すようにすれちがう。凡手ならばせいぜい2カット程度で処理してしまいそうな一瞬のすれちがいを、マキノ雅弘は7カットにも分解して撮る。すれ違いざまに高倉健の肩からハラリと落ちた着物を、藤純子が愛しむように背中から着せかけてやるという演出がその間にあり、マキノ雅弘はあたかもふたりの時間を引き延ばすかのようにカットを割り、情感たっぷりに、あざやかに撮る。
 マキノ雅弘は同様の手法を、その前年の東映京都撮影所作品『日本侠客伝・血斗神田祭り』(1966年)のラストでも試みている。ただしこちらは肩から落ちた着物ではなく、血に染まった高倉健の手がポイントになっている。マキノ雅弘の映画というのは、監督の役者への芝居の振りつけ方の魅力をみるものだと思っているが、ときとして背筋がゾクッとくるようなカット割りを平然とやってのけることがあるから油断がならないのである。


「高瀬川落葉美少女」
2006年12月17日撮影

 冬はジャングルにもやってくる。毒ケムシの毛にやられたあの夏がまるで遠いむかしのように思い出される。
 毎日ジャングルの往来を繰り返しているとさまざまな人々とすれ違う。いつか僕のボートに劣るとも勝らぬボロ舟を見かけたことがある。下流から川を遡ってきた二人組だった。必死でオールを操る若い男となにやらひとりで話している老人で、なぜかどこか見覚えがあるような気がした。いや、実際に見かけたことはない。なのに見たことがあるような気がするから不思議である。今どきラクダ色の探検服などという風体がまずヘンである。僕は疑った。目も疑った。これぞかの事件で得た三億円を資金に世界中を…いや近頃は宇宙までも旅しているという噂のある「博士と川瀬君」ではあるまいか。むろん確証はない。だが遠ざかってゆく丸木舟からは老人のおかしな歌声がたしかに聞こえてきたのである。うろ覚えではあるが、だいたいこんな内容だった。
♪高瀬川の美少女は
 モーターボートをもってない
 いつでも過去から来る高瀬舟に
 便乗している
 時間を旅する 異人さんたちから
 宿を訊かれたら
 岸に上がりながら 身ぶり手ぶりで
 曲がり角教えるわ
 ああ〜川に腹這い
 落葉写す未来の男見ても
 通報しない でもあるでパンチ 
 いたみかけの赤いゴム長〜
 ああ〜正面橋に ラッパどれ?
 トーフ屋のリヤカーいても〜 
 おおそれを知らぬ おおそれ見よ
 いのちがけの時間機


「高瀬川落葉美少女」
「ホームズ」 「ホームズ」
2006年12月5日撮影

 若島正があるところで次のように書いている。
 「人間なら誰しも経験するように、わたしも子供の頃にシャーロック・ホームズの虜になった。全作品を読んだのは、十歳のときである。」
 僕は子供の頃にホームズの虜にはならなかった。人間失格である。岩波少年文庫の「シャーロック・ホームズの冒険」を読むには読んだが、十歳頃の僕にはまるで面白くなかった。だいたいあの旧版の岩波少年文庫というのがいけない。箱入りで地味で教養主義的でいかめしく、何を読んでも面白くない。だからコナン・ドイルのせいではないのである。
 ホームズものに目覚めたのは比較的最近、つまり大人になりすぎてからである。ホームズものの魅力はドイルのあの天才的な語り口にあり、ホームズの人物像をワトソンの目から描き出すという手口にもほとほと感心する。SFの古典とされる『ロストワールド』にしても、ドイルのあの無類の語り口にまんまと乗せられてしまうのである。「鴨川の空」の文章をこうして書いている僕には、ドイルの非凡さが身にしみた。ドイルの才能を思い知らされた。
 ただしこの面白さが子供にわかるとは僕には思えない。若島正はどうやら十歳にしてすでに大人だったのではないだろうか。
「」
2005年2月2日撮影

 
「電話ボックスの怪」 「電話ボックスの怪」
2005年2月16日撮影

 これは、正面児童公園脇に残る公衆電話ボックス。かつてここにはもっと旧式のボックスが設置されていた。
 子供の頃にみたマンガの話をしよう。作者は「オバケのQ太郎」「パーマン」「忍者ハットリくん」を生み出す以前の藤子不二雄だったような気もするが確信はない。大都会のはずれのありふれた電話ボックス。主人公の少年(探偵である)が電話ボックスに入る怪しい男を目撃する。と、目の前で電話をかけていたはずの男の姿が消えたではないか。不審に思った主人公は調査にとりかかる。やがて判明したのは、電話ボックスに入って公衆電話の受話器をはずし、特定の番号をダイヤルすると、足もとの鉄板がガタンと開いて犯罪組織のアジトに通じている(!)という、ドキドキワクワクするような事実であった。その電話ボックスがアジトへの秘密の入り口だったのである…。
 これに魅了されたのが他ならぬ子供時代の僕である。写真の電話ボックスに入り込んではドキドキしながらダイヤルを回した。いろいろな番号の組み合わせを試した。なのに足もとの鉄板はピクリとも動かない。おかしい。そんなはずはない。何かが間違っている。じつは僕が間違っていたのだ。だが研究熱心なのが僕の長所である。組織の一味に…というより、道行く人に見とがめられはしないかとビクビクしながら、受話器を掛けるフックをガンガン叩いてみた。送話口の丸い部分を外してみた。足でもって下の鉄板をドンドンと踏みならしてみた。他にもいろいろと試行錯誤をした。ついに開かなかった。50年経った今でもどこかどこかあきらめきれないでいる。
「パラレル(多田製張所事件簿)」
2005年2月2日撮影

 僕は自営業であるにもかかわらず営業活動が苦手である。それでも単価や納期その他営業面のやりとりをして、合意に達すると依頼主が多田製張所に足を運んでくる。まるで探偵事務所である。だがフィリップ・マーロウやアルバート・サムスンと僕との決定的な違いはといえば、依頼主が訪ねてきたとき彼らがいつも暇そうにしているのに対して、僕がドタバタと立ち働いている点であろう。
 多田製張所の短くはない歴史の中で、来客にまつわるもっとも不可解かつミステリアスな謎に満ちた出来事はといえば…そう、あの事件であろうか。
 その依頼主はある印刷会社の社員として僕の前に現れた。背が高く神経質そうにやせた若い男であった。彼の会社の依頼で何度か仕事をしたのち、現れなくなった。社長の末娘と結婚して独立したという話を耳にした。ところが約十年後、別の人物が彼の名前を名乗って出現した。肉付きのよい堂々たる体格に丸々とした顔、骨格からして別人である。どう見てもあの細面の男ではない。だが本人は「自分は同一人物で、君のこともちゃんとおぼえている」と真顔で言い張る。
 いやそんなはずはない。絶対に別人である。同じ人物がここまで変われるわけがない。こいつ、他人の名前をかたって何をたくらんでいるのだろう。念のため僕は壁の電気のスイッチを探してみた。フィリップ・K・ディックの長編『時は乱れて』に、昨日まであったはずのスイッチがないという描写がある。日常のなかのふとした細部のズレがじつは…というやつである。だが大丈夫、スイッチはあった。僕は同じ世界にちゃんといる。安心した僕がさらに意を強くしたものだから「別人だ」「本人だ」論争は結局ものわかれ。以後、あの男は二度と現れない。人騒がせな奴だったが、こことよく似たパラレルの世界に戻れたのだろう…たぶん。
「パラレル(多田製張所事件簿)」
「石碑のあるところ」 「石碑のあるところ」
2005年2月2日撮影

 ここは北の果て。
 ただし、はるか北の果てという意味ではなく、はるか彼方にゃオホーツクというほどでもない。
 このエノキの大木が、僕の「鴨川の空」サイトのとりあえずの北のはずれを示す目印である。この地点は「ふぞろいの遺跡たち」ページでも別角度(近くのアパートの外階段上)からの俯瞰画像で紹介しているけれど、あえてくりかえす。画像左側の小橋(榎橋)の下に高瀬川が流れ、大木の角を右に曲がればすぐに鴨川である。鴨川に出る道路の下には「ヒミツのぬけあな」(「鴨川・夏」ページを参照)があって、あちこちのページに僕の妄想まじりで登場する地蔵堂もだからそこにある。この画像のすぐ奥(北)は五条通であり、そのすぐ右(東)が五条大橋。牛若丸と弁慶のつまらぬ石像もある。五条通を東に向かって歩くと東大路通りに出る。東大路通りを北へ歩くと、右側に清水坂。坂を登ってゆくと清水寺。清水寺の少し手前にある二年坂、三年坂を北へ行くと高台寺や八坂神社にたどり着くのである。そのような観光名所に僕はもう百年くらいは行ったことがないけれど。
 この大木の根っこにはあの「源融河原院蹟」の石碑が立つ。このことも他のページで触れている。にもかかわらず再度くりかえすのにはわけがある。僕は、やや範囲を拡大していえばこのあたりで生まれ育った(も同然である)にもかかわらず、すこし前まで「源融」石碑の存在を知らなかったのである。これは自慢と賞賛に値する。石碑に気づいたのは東京にいる当サイト編集顧問のN氏であって、僕が送信した画像に小さな古い石碑が写っていることを発見し、再度僕が送信した石碑の大写し画像から源融が光源氏のモデルとされる人物であることを指摘してこられたのである。先人の知恵と教養ならびに人徳、眼力の底深さというのはなるほどたいしたものである。
 ところで…多田製張所だが、ここからこの画像の手前(南)に向かって歩き出してこの画像を突き破り、ローアングルで撮るために地面に腹ばいになっている僕を踏みつけてさらに七百メートルほど歩いたところにある。高瀬川沿いの細い道を、旧五条楽園を通り抜け、どうみても雑草としか思えない花壇をも含めた樹々をながめながら、ブラブラとお越しください。石碑に気づかなかったとはいえ、愛らしくもいじらしい僕が毎日けなげに働いているだろうから。
(2013年10月23日改訂) 




「高瀬川岸に雪が降る」
2003年12月20日撮影

 京都市下京区木屋町通正面下ル十禅師町とはなんたる長ったらしい住所だろう。まるで呪文ではないか。もうすこし簡略化できないものか。子供のころ自分の生まれた家の住所についてそう感じていた僕は、仕事場を生家跡に戻したのを機会に、仕事関係の書類には「下京区十禅師町○○番地」と簡略化して書き込むことにした。うん、これなら書きやすい。ところが郵便物ならこれで届いてくるものの、区役所などでは却下される。戸籍に記載された正式な所番地ではないからである。
 作家・池澤夏樹は京都大学での連続講演録『世界文学を読みほどく』(新潮選書)において以下のような発言をしている。
 「日本でも、希望ヶ丘とかあるでしょう。今はそういう時代なんですね。昔ながらの地名は今非常にいじめられていて、コピーライターの作る無意味で空疎な偽の地名とすり替えられてしまうケースがとても増えています。その点京都はえらい。とくに京都市内は本当にえらいです」
 これはトマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』について語った中の一節である。小説のほうは『南の島のテオ』しか読んだことがないが書評集なら何冊か持っている池澤夏樹のような人物にそう言ってもらえると、昔ながらの舌をかみそうな地名も、文化の立派な一部であることが納得できる気になってくる。でもこの写真のタイトルに限っては「木屋町通正面下ル十禅師町に雪が降る」よりも「高瀬川岸に雪が降る」のほうがお似合いだろう。

「山中貞雄少年の家」 「山中貞雄少年の家」
2005年2月7日撮影

 この道のゆるやかな勾配に心惹かれるのはなぜだろう。勾配のむこうに彼岸と此岸をつなぐ橋が架かっているからだろうか。高瀬川に架かるこの正面橋から鴨川に架かる正面大橋までの短い道の途中には、お米屋さん、八百屋さん、履き物屋さん、時計屋さん、荒物屋さんがあり、橋のたもとには梵鐘を置いた仏具屋さんがある。僕が子供の頃に通った目医者さんもあった。そこには今、医療器具博物館という看板がかかっているのだが、開門している気配はない。
 ここはJR京都駅から徒歩10分の距離にあるにもかかわらず、大型スーパーが進出してくる気配もなく、レンタルビデオ店一つ存在しないのは、かつての子供たちの多くがこの地を離れていってしまったせいであるのだろう。昼下がりというのにあまりの人影のなさに愕然としてしまうこともたびたびである。
 1925年頃のことだが、この道の中程を右(南)に曲がったあたりに山中さんという家があったはずである。中国大陸において29才の若さで戦病死したカツドウ屋・山中貞雄の実家である。ただし山中家は何度か転居をしているから生家ではない。山中貞雄の実家が一時期ここにあったというべきだろう。
 山中の実の甥であった映画監督・加藤泰は、遺著『映画監督 山中貞雄』(キネマ旬報社 1985年)に次のように記している。「そして、大正十五年のうちに、もっと手頃の家を見つけて引っ越した。それは一応、五条界隈の家には違いないが、五条大橋から一つ下の正面大橋を西に渡り、少し行った一筋、二筋目の三ノ宮町、それを南に下ってすぐの、町名で言うなら下京区三ノ宮町正面下ルの、小さな、京の仕舞うた屋の二階家であった」
 加藤泰の文章は正面大橋の向こう側から述べられていて、この写真とはちょうど逆のポジションをとっている。僕はその小さな家のあった場所を特定したいと思うのだが、それができないでいる。山中家がそこへ転居して以来80年、加藤泰の死後20年が経過しているからである。だが…少年の日々の山中貞雄も毎日この道を通り、正面大橋を渡ったことだろう。
 高瀬川の正面橋に足をとめ、今は僕の仕事場がある南の方角を眺めることもあったにちがいない。僕の目には、正面通りを歩く少年・山中貞雄の後ろ姿が見えるような気がするのである。


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